2015.09.15 文化芸術振興

【モンゴル帝国】マルコ・ポーロの「ジパング」黄金伝説

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モンゴル帝国の遠征に必要だったマルコ・ポーロの情報

モンゴル帝国の第5代皇帝フビライ・ハン(在位1260年〜1294年)は、イタリアよりシルクロードを渡ってやってきた冒険家のマルコ・ポーロを情報収集のできる人材として重宝しました。

モンゴル軍の遠征を支えるためには、正確な情報に基づいた敵の分析、作戦の戦略が必要だったからです。

戦いを有利にさせる為の軍の戦略として、外国人の情報提供者の確保にも力を入れていました。

(モンゴル帝国軍の)実戦においても先鋒隊がさらに前方に斥候や哨戒部隊を進めて敵襲に備えるなど、きわめて情報収集に力がいれられる。また、中央アジア遠征ではあらかじめモンゴルに帰服していた中央アジア出身のムスリム商人、ヨーロッパ遠征では母国を追われて東方に亡命したイングランド貴族が斥候に加わり、情報提供や案内役を務めていたことがわかっている。(モンゴル帝国/Wikipedia)

 

1258年のフレグ西方遠征軍による『バグダードの戦い』(『集史』パリ本より)

1258年のフレグ西方遠征軍による『バグダードの戦い』(『集史』パリ本より)

 

モンゴル帝国第5代皇帝フビライ・ハンにマルコ・ポーロが日本の存在を伝えていた!

シルクロードを渡って来日した人達は古の日本の姿を見てどう思ったのでしょうか。

ジパング(日本)の存在を西洋に伝えた最初の文献は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」です。

マルコ・ポーロは1254年、ヴェネチア共和国の代々商人の家に生まれました。

当時父親は中東貿易ですでに成功していましたが、母親はマルコ・ポーロがまだ10代の頃、一行の東方への旅の途中で亡くなりました。

成長したマルコ・ポーロはヴェネチア商人になり、冒険家としても有名になりました。

「東方見聞録」はマルコ・ポーロが44歳、1298年頃に伝承としてつくられました。

そこに書かれた詳細な情報はモンゴル帝国だけでなく、13世紀〜14世紀のヨーロッパに大きな影響をもたらしました。

そしてその文中で、「豊かな黄金の国としての日本の存在」を西洋に紹介し、後の16世紀のポルトガル(鉄砲伝来)やフランシスコ・ザビエルの来日などに影響しました。

 

マルコ・ポーロ一行、シルクロードを越えモンゴル帝国にたどり着く!

時は13世紀、ヴェネチア共和国(現イタリアのヴェネチア)。

マルコ・ポーロが育ったヴェネチア共和国は、東地中海貿易が栄えた海洋国家でした。

当時のシルクロードの貿易*では東方の絹、西方のコショウ等が主に取引されました。

*参考記事:【世界文化遺産】絹の道を越え、古の文化交流の宝が日本にもある

特にコショウは貴重で金と同重量で交換されたことからヴェネチア商人に「天国の種子」と呼ばれました。

その他、オリーブオイル、ワイン、綿、羊毛皮類、インディゴ(染料)、武具、木材、奴隷なども盛んに取引されてました。

まさにヴェネチア共和国は、東と西の貿易地点でした。

ヴェネチア共和国は、7世紀末から1797年ナポレオンに降伏するまで、約1000年存続した史上最長の国家としても有名です。

 

さて時は1271年、当時15歳だったマルコ・ポーロは、ヴェネチア商人の父ニッコロー・ポーロと叔父マッフェーオ・ポーロとともにアジアのシルクロードに向けて出発しました。

父ニッコロー・ポーロは中東貿易で成功し、財を成していました。

その財を宝石に変え、マルコ・ポーロ一行は東を目指し旅立ちました。

ヴェネチア

ヴェネチア

 

文献による、マルコ・ポーロ一行の経由地 (現在の地名)です。

アークル (アークル、ハイファ北東、イスラエル) エルサレム (エルサレム、イスラエル) ライアス (イスケンデルン、トルコ) カエサリア (カイセリ、トルコ) エルズルム (エルズルム、トルコ) 

トリス (タブリーズ、イラン) カズヴィン (ガズヴィーン、イラン) ヤズド (ヤズド、イラン) ケルマン (ケルマーン、イラン) コルモス (バンダレ・アッバース、イラン) 

サプルガン (シバルガン、アフガニスタン) バルク (バルフ、アフガニスタン)

ホータン (ホータン、中国) チャルチャン (チェルチェン、中国) 敦煌 (敦煌、中国) 寧夏 (インチョワン、中国) シャンドゥ・上都 (内モンゴルにあった元の夏の首都、中国) ハンバリク・大都 (北京、中国) ヤンジュウ (揚州、中国) スージュウ (蘇州、中国) キンサイ (杭州、中国) ザイトゥン (泉州、中国)

ビンディン (ダナン、ベトナム)

ファーレック

コイルム (コーラム、インド) タナ (ムンバイ北方、インド)

トレビゾンド (トラブゾン、トルコ) コンスタンチノープル (イスタンブール、トルコ)

(「東方見聞録」/wikipediaより)

 

マルコ・ポーロたちは陸路をとり中央アジアを越えて、ついに1275年、未知の国、元、モンゴル帝国へたどりつきました。

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モンゴル帝国第5代皇帝フビライ・ハンの支配

マルコ・ポーロ一行が到着する前、1271年にモンゴル帝国の第5代皇帝フビライ・ハンは南宋を滅ぼし、中国全土を支配し、都を大都(北京)に遷し国号を「元」と改めました。

フビライ・ハンは情報収集や外交にも大変力を入れており、マルコ・ポーロをとても気に入りました。

モンゴルの宮廷に迎え入れ、ハンのもとに留まるよう、マルコ・ポーロ一行を元の政治官に任命しました。

モンゴル軍の遠征支えるためには、敵側の正確な情報に基づいた分析、作戦の戦略が必要でした。

そういう点においても、マルコ・ポーロたちが持ち込んだ生きた情報はモンゴル遠征におけるあらかじめの情報として重要でした。

マルコ・ポーロ一行にとっても未知の東方の情報がつかめるので非常にメリットがあったと思われます。

一行は約17年間、モンゴルにとどまり宮廷に仕えました。

 

モンゴル帝国の「元寇」の目的は日本の黄金狙い

大陸を支配していたモンゴル帝国は、13世紀の終わりに日本にも戦い「元寇(蒙古襲来)」を挑みにきています。

フビライ・ハンが日本へ関心を抱いたのは、高麗人やマルコ・ポーロより日本の富*を聞かされ興味をもったからだそうです。

*参考記事:誇るべき日本の天平文化、シルクロードと仏教美術

元寇の1回目を「文永の役」(1274年)、2回目を「弘安の役」(1281年)と呼びます。

マルコ・ポーロたちは弘安の役の頃にはフビライ・ハンに仕えていました。

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『東方見聞録』に描かれたクビライ・カアン 中央のクビライ・カアンに2人の王が日本の黄金の容器を献上している。 クビライの足元には「すこぶる美味」な日本の鶏が描かれている。 『東方見聞録』のミニアチュール(挿絵)は写本が作成される過程で14世紀後半から15世紀初頭に描かれたものである。 『東方見聞録』(『驚異の書』) fr.2810写本 ミニアチュール(挿絵)folio71 フランス国立図書館所蔵 アップロード:震源動地(20013年9月16日) (元寇/Wikipedia)

「東方見聞録」の中で日本はこう記されています。

大陸から1500マイル(約2,250km)離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も2ドワ(約4cm)の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した。(元寇/Wikipedia)

 

2回目も弘安の役において日本に派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であったと言われています。

マルコ・ポーロのアドバイスだったのかもしれません。

しかし2度の元寇は失敗し日本が勝利します。

 

マルコ・ポーロは17年間も仕えたのにも関わらず、当時の元の史料にマルコ・ポーロの名が登場していません。

その理由として「東方見聞録」の中で、「外国人を重用したことを公にするわけにはいかないのですべての資料にマルコの名を記さなかった」と書かれているそうです。

もしかしたらマルコ・ポーロはスパイだったのかもしれないとも一部で言われています。

最終的にモンゴル帝国は当時の世界人口の半数以上を統治し、人類史上最大規模の世界帝国となりました。

マルコ・ポーロが体験したモンゴルは、ちょうど最大規模時から晩年のモンゴル帝国でした。

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Mongol Empire Map by Sven Manguard (June 1, 2006)

 

モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カン

マルコ・ポーロを重宝したフビライ・ハンはモンゴル帝国第5代皇帝であり、1206年にモンゴル帝国を建国した初代皇帝チンギス・カンの孫です。

チンギス・カンは大小様々に分かれて抗争していた遊牧民部族をまとめ、イランや東ヨーロッパまで征服しモンゴル帝国の基盤を築きました。

現モンゴル国において、チンギス・カンは神格化され今でも国家創建の英雄として称えられています。

「東方見聞録」によると、チンギス・カンやその一族の埋葬地は重要機密とされ、チンギス・カンの遺体を運ぶ隊列を見たものは秘密保持のため殺されたそうです。

これはチンギス・カンが死ぬ間際に、自分の死が敵国に知られると攻めてこられる可能性があるから死をふせておくようにという遺言を残したそうです。

 

ちなみに、2004年、英国オクスフォード大学の遺伝学研究チームは興味深い発表をしました。

DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であると。

ケンブリッジ サンガー研究所のカーシム・アユブ博士らは世界の3200万人がチンギス・カンの遺伝子を引き継いでいると結論づけています。

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チンギス・カン

 

「東方見聞録」の執筆はモンゴル帝国から帰国しヴェネチアで

シルクロードを渡ったマルコ・ポーロ達はモンゴル帝国に約17年間とどまり、1295年にヴェネチアに戻りました。

全行程15、000kmの壮大な旅だったと言われています。

彼らの帰国後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァとの戦いが始まりました。

マルコ・ポーロも従軍しましたが、ジェノヴァ側に捕らえられました。

1298年、数ヶ月の収監中に彼は旅の詳細を口述し、投獄中の職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサがそれを書き起こしました。

その時、ピサが本人自身が聞きかじった逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えたと言われ「東方見聞録」の情報の正確性に疑問視されている一因となっています。

しかしながら、「東方見聞録」の未知の情報は、時の権力者を魅了し後世まで重宝されたといいます。

 

マルコ•ポーロ「東方見聞録」

マルコ•ポーロ「東方見聞録」

 

4冊の本からなる「東方見聞録」は以下のような内容が記述されています。

1冊目 :主に中東から中央アジアで遭遇した話

2冊目:中国に到着後からクビライの宮廷についての話

3冊目:ジパング(日本)、インド、スリランカ、東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域についての話

4冊目:モンゴル帝国、ロシアなどの極北地域について戦争の話など

 

マルコ・ポーロによって、日本は黄金の国としてヨーロッパに知れ渡りました。

 

黄金の国伝説、ジパング

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マルコ・ポーロの「東方見聞録」によると、「中国のさらに東のはずれにある小さな島国ジパングは建物も、山も、川も、何もかもが黄金で出来ている。」

シパンギュは東方の海上にある孤島で、大陸からは1500海里の距離にある。

シパンギュは極めて巨大な島です。住民の肌は白く、美しい姿形をしている。

シパ ンギュ島民は偶像崇拝教徒で、住民自らによって島を統治している。

(マルコ・ポーロ『世界の記述』における 「ジパング」 片山 幹生著)

 

つまりマルコ•ポーロの記述によるジパングとは、

「カタイ(中国大陸)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国」

「莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている」

財宝や黄金は本当にあったのでしょうか。

 

黄金伝説の正体は「中尊寺 金色堂」?!

マルコ・ポーロによるジパングの記述の「黄金」とは何を指しているのでしょうか。

日本で初めて金が産出されたのは天平時代、749年(天平21年)頃とされています。

天平時代は、7世紀終わり頃から8世紀の中頃までをいいます。

 

宮殿や民家は黄金でできている

どうもこれは、平安時代末期、奥州藤原氏によって平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた奥州平泉の「中尊寺金色堂(下記写真)」がモデルになっているようです。

12世紀、当時の日本、奥州では莫大な金を産出していました。

それは奥州藤原氏の財力・栄華の源泉でした。

奥州平泉は現在の岩手県平泉町にあたります。(参照:下記地図)

1105年、奥州藤原氏初代清衡公によって中尊寺の造立に着手されました。

清衡公は釈迦如来により説かれた仏教を尊び、平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしました。

そうした極楽浄土を具体的に表現したのが金色堂です。

金色堂はその名のとおり、木の瓦がのった屋根から壁、床から天井、内外共に全て「総金箔貼り」です。

当時の工芸技術が集約されている豪華絢爛な建築です。

内外に金箔の押された「皆金色(かいこんじき)」と呼ばれる金色堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってきた白く光る夜光貝の細工を用いた螺鈿細工です。

そして日本では珍しい象牙や華やかな宝石によって見事に飾られています。

このような豪華な造りのお堂は世界で一つだけで、堂そのものが美術品です。

須弥檀の中心の阿弥陀如来は両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天という珍しい仏像構成となっています。

こうした藤原清衡公が思い描いた極楽浄土、まばゆいばかりの輝きが「黄金の国、ジパング」という伝説をつくったのでしょう。

 

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中尊寺金色堂(世界遺産)白黒写真

金色堂中央壇の高欄の角材の辺の部分に線状に切った象牙が使われてあり、それはアジアゾウの牙では無くアフリカゾウの牙と鑑定されています。

このアフリカゾウの牙は、シルクロードを経て遠くアフリカ大陸から日本に輸入されたものと考えられます。

当時の奥州藤原氏の財力と勢力の広さを窺い知ることができます。

平泉の地は藤原氏保護のもと、豊かさと平和を基盤に、壮麗な仏教美術*等がおよそ100年近く繁栄しました。

*参考記事:知らないと損する仏像の歴史!

黄金の平泉文化

奥州藤原氏が都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立した所以は、その莫大な経済力の背景があったということと、兄弟・親子の激しい戦いや殺戮を反省し、戦没者への追善の思いがありました。

造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されています。

その願いの実現には金銀をふんだんに使いました。

 

紺紙金字一切経 (中尊寺経) (1117年-1126年): 現在は高野山金剛峰寺蔵

「紺紙金銀字交書一切経」(写真上)は、紺色に染めた紙にお経の文句が一行ごとに金字と銀字で交互に書写されています。

金と銀ですので、大変豪華な写経の文字です。

このお経が最初に納められたお寺が平泉の中尊寺と考えられ、通称の名前で「中尊寺経」とも呼ばれています。

「紺紙金銀字交書一切経」とは:

一切経というのは、経(きょう=仏さまの教えを書いたもの)・律(りつ=信者が守るべき規則)・論(ろん=仏さまの教えを解釈〈かいしゃく〉したもの)など仏教の書物(経典〈きょうてん〉)を集大成(しゅうたいせい)したもので、一セット5400巻近い経典から成り立っています。

全部を書写するのに必要な紙の枚数は約九万枚と考えられますが、それを紺紙に金と銀で書写するとなれば、莫大(ばくだい)なお金と時間、そして人手が必要となります。

このような大事業をおこし、それを行ったのが初代藤原清衡(1056-1128)でした。

実際に書写事業がはじめられたのは、永久(えいきゅう)5年(1117)2月からと考えられますが、9年後の天治(てんじ)3年(1126)3月には完成を見ています。

(京都国立博物館 「中尊寺経」の説明より)

 

金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められています。

金箔の棺、中尊寺の4つのミイラ

金色堂にあるヒバ材でつくらた棺より3体のミイラとミイラ化した首が見つかりました。

棺の内外に金箔が押されていいます。

その金箔は、金色堂の建物自体に使用された金箔と同様、遺体の聖性、清浄性を保つ象徴的意味があると見なされています。

 

これらの遺体は

  •  初代:藤原清衡
  •  第2代:藤原基衡
  •  第3代:藤原秀衡
  •  第4代:藤原泰衡(首級)

藤原家4代にわたった遺体です。

藤原親子同士の戦いで、負けた藤原泰衡の首は切られ祀られました。

泰衡の首の損傷のあとより、八寸釘(約24cm)を使用して釘打ちの刑に処せられたと言われています。

泰衡の首桶からは約100個の蓮の種子が発見され、泰衡没後811年後の2000年にこの種子の発芽に成功しました。

現在では「中尊寺蓮」として栽培されています。

 

ミイラはエジプトのようになんらかの人口的な保存処置をしミイラにしたのか、自然にミイラになったのが諸説ありました。

1950年3月に、人類学者で東北帝国大学名誉教授だった故長谷部言人を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」によって調査されました。

調査をした結果、故鈴木尚教授(当時、東京大学理学部人類学教室助教授)と故長谷部言人教授は、これらのミイラは人工的ではなく自然にできたミイラだと推定しました。

反対説も唱えられています。

ミイラは人工的につくられたという説を唱えているのは、日本の法医学の草分けで科学捜査の研究に寄与した古畑種基東大名誉教授です。

古畑種基は人工加工説を唱えている。遺体には内蔵や脳漿が全く無く腹部は湾曲状に切られ、後頭部には穴が開いていた。

裂け目にはネズミの歯形が付いていたが、木棺3個とも後頭部と肛門にあたる底板に穴が開けられており、その穴の切り口は綺麗で汚物が流出した痕跡はなかった。

また、男性生殖器は切除されており、加工の痕跡は歴然であるとした。(中尊寺金色堂/Wikipedia)

 

<日本人僧の最後の遣唐使、円仁>

もともと中尊寺は850年、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師「円仁」によって開かれました。

円仁とは、9世紀の日本人僧で天台宗•最澄に師事し、比叡山興隆の基礎を確立するとともに、遣唐使として晩年の唐に渡り、中国の社会・風習についても記述しました。

その時の旅行記が「入唐求法巡礼行記」で、晩唐の歴史研究の史料として高く評価され、一部ではマルコ・ポーロの記述より勝るとも言われています。

Cover_and_page_of_Ennin's_Diary_-_The_Record_of_a_Pilgrimage_to_China_in_Search_of_the_Law_入唐求法巡禮行記

入唐求法巡礼行記(838年)円仁著

 

モンゴル帝国に伝わった黄金伝説

マルコ・ポーロがモンゴル帝国のフビライ・ハンに仕えていた13世紀頃、奥州地方の豪族、安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていました。

この中国交易から豪華絢爛な「金色堂」の話が漏れ伝わったとも言われています。

また別説では日本の豊かな稲作、秋の実りの風景を「黄金(金色)」と表現したものではないかという話もあります。

いずれにせよ、東の果てにある国日本に対しての憧れがあったのでしょう。

「東方見聞録」はアジアに関する貴重な資料として、15世紀〜17世紀半ばまで続いた「大航海時代」のヨーロッパ人にも多大な影響を与えました。

イタリアの探検家、クリストファー・コロンブスも、1438年から1485年頃に出版された「東方見聞録」を持ち、計366箇所も書き込みをしていました。

このことからアジアの富や黄金に興味があったと考えられています。

東の果てにある国、憧れの対象の国、日本。

私たちは過去から受け継いだものづくりの文化、財産、正しい歴史を継承*していかなければなりません。

*参考記事:日本の未来が危ない!世界に誇る日本の文化芸術の衰退!乏しい日本の文化庁予算の真実

 

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