2016.01.21 文化芸術振興

【世界文化遺産】絹の道を越え、古の文化交流の宝が日本にもある!

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絹の道は多様な人種、宗教、文化が交差し変化に富んだ、古代の道

シルクロード、つまり「絹の道」という名称は、中国産の絹が貴重な交易品として西アジア、インド、ローマ帝国にもたらされたことに由来しています。

絹の道は東西をつなぎ、広大な砂漠や数々の海を越えた文化や宗教、民族の交流により、新たな文化、美術や伝説、ロマンを生みだしました。

この記事では、シルクロードがもたらした日本の国宝の紹介や意外に知られていないシルクロードの基礎知識についてご紹介します。

シルクロードを行く人々。莫高窟、敦煌、中国、9世紀

シルクロードを行く人々。莫高窟、敦煌、中国、9世紀

 

絹の道(シルクロード)の「東の終着点」といわれる「正倉院」は宝の蔵

日本にある「正倉院」がシルクロードの「東の終着点」と呼ばれています。
正倉院は奈良東大寺にあり、天平文化*が栄え「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコの世界文化遺産として1998年に登録されました。

*参考記事:誇るべき日本の天平文化、シルクロードと仏教美術

東大寺の宝の蔵といわれる正倉院には、聖武天王、光明皇后ゆかりの品、天平時代(8世紀)を中心とした国宝の美術工芸品が所蔵されています。

平螺鈿背八角鏡(東大寺•正倉院)

平螺鈿背八角鏡(東大寺・正倉院)

美術工芸品には、日本製品、唐、西域、ペルシャなどから輸入品を含めた絵画、書、金工、漆工、木工、刀剣、陶器、ガラス器、楽器、仮面など古代の貴重な品々があります。

その他、奈良時代・天平文化*の日本を知るうえで貴重な史料、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵されています。

「平螺鈿背八角鏡(写真下)」は、鏡背に螺鈿で花鳥文がデザインされ、花心に赤い琥珀、また文様の間地は琥珀、白や水色のトルコ石、ラピスラズリの細片を散りばめた大変豪華な作品です。

使用された夜光貝、べっこうは東南アジア産、琥珀はミャンマーあるいは中国産、トルコ石はイラン産、ラピスラズリはアフガニスタン産で、絹の道を通って日本に届いた外国産の貴重な品々を贅沢に使っています。

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羊木臈纈屏風(東大寺・正倉院)

海外との交流が盛んだった天平文化が栄えた8世紀に、羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)は作られました。(写真左)

羊がデザインされたろうけつ染めの屏風で、樹木の下に動物の構図は、サーサーン朝ペルシア(3世紀〜7世紀)の国教であるゾロアスター教、聖樹禽獣紋から影響を受けています。

 

現在は正倉院というと東大寺のを指しますが、もともとは奈良にある「南都七大寺*」と呼ばれる大きな寺にはそれぞれ宝の倉として、正倉院が存在しました。

時の経過とともに、東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残り、自然と「正倉院」は東大寺に所在する正倉院宝庫を指すようになりました。

国内で一層貴重な美術品のコレクションとなりました。

*南都七大寺:興福寺 東大寺 西大寺 薬師寺 元興寺 大安寺 法隆寺

希少な品として、青斑石鼈合子(せいはんせきべっこうす)があります。

甲羅に北斗七星の文が金と銀で刻まれた亀形の容器で、腹部を八稜形にくりぬかれ、そこに同じ八稜形の皿が納まるようにつくられています。

この時代、星座をモチーフとした作品そのものが珍しく希少で、正倉院正倉院の宝物の中でもユニークな一品です。

献物帳 国家珍宝帳 冒頭

献物帳 国家珍宝帳 冒頭(東大寺・正倉院)

もともと正倉院にある宝は、光明皇后が夫である聖武天皇の遺品約650点、及び60種類の薬品を、756年に東大寺の大仏に奉献したのが始まりと言われています。

その後も光明皇后は数多くの貴重な品を大仏に奉献し、それらの献納品は目録と共に正倉院に納められました。

その目録は『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『屛風花氈等帳』、『大小王真跡帳』、『藤原公真跡屛風帳』の5巻から成り立ち、献物帳(写真)として残っています。

当時の正倉院の宝は全て残っているわけではなく、盗まれてしまった品も多いです。

武器などは「藤原仲麻呂の乱」の際に大量に持ち出されたといわれ、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されていることもあります。

 

日本の弥生時代に古代ローマ帝国と交流していた?!

1977年に日本で発掘された弥生時代の遺跡の発掘より、弥生時代(紀元前3世紀〜紀元後3世紀頃)にすでに古代ローマと繋がっていたことが立証されました。

1977年、広島県三次市松ヶ迫矢谷(まつかさこやたに)遺跡から直径約1cmのガラス玉3点が発見されました。

中央に穴があることから、装身具の一部だったのではないかと推測されています。

奈良文化研究所による蛍光エックス線などの分析の結果、ガラス玉の製造に「ナトロン(蒸発塩)」が使われていることが判明しました。

古代ローマ帝国のガラス製造に、この「ナトロン(蒸発塩)」が使われていました。

松ヶ迫矢谷(まつかさこやたに)遺跡から発掘されたガラス玉は、古代ローマ特有の美しいコバルトブルーの深い色合いです。

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飛行機も無い時代に、異民族から異民族へシルクロードをへてはるばる日本へ渡ってきたのです。

いったいどの位の日数をかけてきたのでしょうか。

この遺跡は弥生時代後期のもので、地中海地域全域を支配していた古代ローマ帝国とちょうど時代が重なります。

蛍光エックス線などのテクノロジーの進化によって得られたこうした発見は、紀元前弥生時代にすでにシルクロードはローマから日本までつながっていたという動かぬ証拠となりました。

 

絹の道(シルクロード)の基礎知識

シルクロードはどこからどこまで?

実際には絹の道の出発点と終着点はどの都市だったのでしょうか。

諸説ありますが、有力な説は3つあります。

  1. 東は長安(中国)から始まり、西はアンティオキオ(シリア)までとする
  2. 洛陽(中国)からコンスタンチノーブル(イスタンブール)までとする説
  3. ローマから日本まで、つまり日本がシルクロードの東端だったとする説

と、様々な考え方があります。

なぜならば、シルクロードは広大な地域と長い時代にわたり、多種多民族の混在、侵略戦争などの影響によりその姿を変容させていったことや、特定の国家が経営していなかった等の原因により、いまだに不明な部分が多いからです。

そうした古代からの謎がまた、シルクロードの魅力でもあります。

神秘的な伝説がロマンを生み、マルコ・ポーロの「東方見聞録」*やわずかな書物や残された遺跡、仏教美術、考古学等の分野により、いまだに世界中でシルクロード研究が続けられています。

*参考記事:【モンゴル帝国】マルコ・ポーロの「ジパング」黄金伝説

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絹の道(シルクロード)

さて、それではシルクロードのルートは大陸をまたがり、どのように通って行ったのでしょうか?!

主要なルートも諸説ありますが、現在では3つの交易路があったと考えられています。

  1. 草原の道:最も古いルート、中国を北上しモンゴルをぬけカスピ海、黒海に至るルート。
  2. オアシスの道:19世紀ドイツの地理学者リヒトフォーフェンが名付けた”シルクロード”に当たる東トルキスタンを横切る東西を結ぶルート。
  3. 海の道:中国南部から海をわたり、東シナ海→南シナ海→インド洋→インド→アラビア半島へと至る海のルート。

東方の漢で作られた「絹」がシルクロードを通り運ばれ、西方からは文物(書物)が持ち込まれました。
その他、玻璃、瑠璃、宝石、香料、葡萄、胡麻、胡瓜、胡桃、ザクロなどが西方より漢にもたらされました。
そしてこうした物は、中国大陸をぬけ、さらに海を渡り、最も東にある日本にも普及しました。

 

絹の道(シルクロード)はいつから存在していたか?

「漢」の時代、紀元前200年〜100年頃にはすでに存在していたといわれます。

2200年前には古代貿易路として機能していたわけです。

「漢」の時代は日本の弥生時代にあたり、日本では土器、木器の他、青銅器や鉄器も使われ、武器や貯蔵庫をもち、クニ(集落)ごとに水田農耕、狩猟、漁業等も行われていました。

遺跡から出土された頭蓋骨を調べると、弥生人の身長は162〜163cmが平均と推測されています。

 

絹の道(シルクロード)の魅力

この交易によって、各国の文化、文明の利器、貴重な品が運ばれることとなり、宗教*も伝播していきました。

*参考記事:知らないと損する仏像の歴史!

仏教、ゾロアスター教、マニ教、ミトラス教、キリスト教などが伝わった道であり、経典を求めてインドに赴いた中国の僧たちが歩んだ道でもあり、異民族が来襲し侵略された道でもありました。

新しいものが運ばれ、人と人をつなぎ、戦いが生まれ、この繰り返しが、シルクロード沿道の国々・地域でぶつかり合い積み重なって、新たな文化を生み出しました。

発掘された遺跡や国宝などに見られる長い異文化の歴史と文化交流の様相こそが、シルクロードの魅力だと思います。

(希望日本研究所 第7研究室)

 

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