2015.08.05 杉原千畝

「偉大なる人道主義者」大日本帝国陸軍中将 樋口季一郎物語(下)

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偉大なる人道主義者 ゼネラル・樋口

その生涯において、3度もの「奇跡」を起こした樋口季一郎。

大東亜戦争中という、軍人としては行動の制約が多い状況下でも樋口は「人道主義」を貫き、日本人の誇りを世界中に示した真のヒーローなのである。

その功績を次世代までしっかり語り継ぐことは我々の責任であり、まずは杉原千畝の功績を広く周知することにより、樋口の功績をも再評価することにつなげていきたいと思う。

 

樋口季一郎「3つ目の奇跡」

樋口がその生涯において起こした3つの奇跡。

一つ目は1938年(昭和13年)満州のハルビン特務機関長在任中に、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人たちを救った「オトポール事件(→(上)参照)」極寒のシベリア鉄道オトポール駅において満州国から入国を拒否され、路頭に迷うおよそ2万人ものユダヤ人の命を救った。

 

二つ目は1943年(昭和18年)北方軍司令官在任中に、アッツ島での悲劇の玉砕戦と引き換えに大本営から承諾を取り付けた「キスカ島撤退作戦(→(中)参照)」。圧倒的な兵力を誇るアメリカ軍に完全包囲されたキスカ島から、濃霧に紛れて極秘裏に日本軍守備隊約5000人を一人残らず無傷で撤収させることに成功。

 

そして3つ目が1945年(昭和20年)北方軍を改編した第5方面軍司令官と北部軍管区司令官を兼任中に、ソ連の卑劣極まりない侵攻から北海道を辛くも護った「占守島(しむしゅとう)の戦い」。ポツダム宣言受諾に従い武装解除中であった日本に対し、日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻を続けたソ連軍を最前線で食い止め、「北海道の占領」というソ連スターリンの野望を粉砕した。

 

 

「占守島の戦い」樋口季一郎の誇りある決断

1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)に入ると、日本をめぐる戦局はますます悪化しており、樋口は北方軍を改編した第5方面軍司令官と北部軍管区司令官を兼任していた。つまり北方における軍部の最高責任者である。

1945年(昭和20年)8月6日、広島に原爆が落とされると、その直後の9日に日本と中立条約を結んでいたはずのソ連が一方的に条約を破棄し満州北部などへの侵攻を開始。

さらに、日本がポツダム宣言を受け入れ終戦となった8月15日以降を過ぎても、ソ連軍の攻撃は止まることはなく、8月18日には千島列島の北東端に位置していた占守島(しむしゅとう)まで攻めこんできた。

オホーツク海と太平洋に囲まれ、夏でも気温は15度くらいで濃霧に覆われ、冬はマイナス15度の極寒の上に猛吹雪に襲われることが多い占守島は、アリューシャン列島を撤退した日本にとっては北東端の地であり、防衛の要でもあった。

 

当時日本軍は、樋口の指示により第5方面軍指揮下の部隊が対アメリカ戦を予想して、占守島・幌筵島(ぱらむしるとう)の要塞化を進めており、本土決戦や北海道本島防衛のため、兵力の引き抜きがあったものの、終戦時点でも第91師団が配備されていた。

師団の兵士はノモンハン事件ガダルカナル島の戦いの生き残り、そしてキスカ島撤退作戦の参加者が多く、経験豊富な精鋭部隊であった。

また、これまで北方方面はほとんど戦闘がなかったため、食糧・弾薬の備蓄が比較的豊富であり、満州から転進した戦車第11連隊も置かれていた。

 

8月15日の天皇陛下による玉音放送に続き、「8月18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣」「その場合も、なお敵が戦闘をしかけて来たら、自衛のための戦闘は妨げず」との第5方面軍からの命令は、17日までには守備隊の各部隊に伝達され、戦車の備砲を撤去するなど武装解除の準備を進めつつ、化学兵器の海没処分などは終えていたが、竹田浜の前線には村上則重少佐率いる独立歩兵第282大隊隷下の部隊が防衛のため展開していた。

 

8月18日午前1時頃、突然対岸のカムチャッカ半島側から長距離砲弾が占守島に撃ち込まれ、島北端の国端岬一帯に、多数の上陸用舟艇が接近。数千の兵士が強襲上陸してきたとの報が飛び込んでくる。

当初、日本側は上陸してきた敵の正体が分からず国籍不明としていたが、ほどなくしてソ連軍と判明。

 

占守島からの報せを受けた樋口は重大な決断を迫られる。

大本営からは「各方面の一切の戦闘行為を停止す。ただし、やむをえざる自衛行為を妨げず。自衛目的の戦闘の最終日時は18日午後4時とする」との指示を受けており、積極的戦闘は禁じられていたが、自衛戦闘であれば可能であった。

 「自衛のための戦闘」を行うべきか、あるいは大本営の指示に従い、一切の戦闘行為を停止しソ連軍に蹂躙されるのを黙って見ているのか。

大いに悩む樋口だったが、やがて最高責任者としての命令を第91師団に対して独断で下す。

 

「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」

 

樋口の指令を受けた第91師団長の堤中将は、射撃可能な砲兵に上陸地点への射撃を命ずるとともに、戦車第11連隊に対し歩兵、工兵を付けて先遣隊として出動し、国端方面に進出して敵を撃滅するように命じた。

 

陸軍戦車第11連隊は、連隊番号の「十一」を「士」と読み、「士魂部隊」と称しており、部隊を率いていたのは池田末男中佐。

池田末男

1940年(昭和15年)3月に満州で創設された戦車第11連隊は、本土防衛のため1944年(昭和19年)2月に占守島に配備されていた。

堤師団長からの戦闘配備命令を受けた池田は、ただちに本部および隷下の各中隊に戦闘準備と天神山への集結を命じ、自らも戦車第3中隊と合流。

しかし、武装解除を進めていた部隊にとって、態勢を再び整えるにはあまりに時間が足りず、間に合ったのは戦車20輌ほどで、配属の歩兵も工兵も揃っていない有り様だった。

戦車は歩兵と協力してこそ無用の損害を防ぎ実力を発揮できるもの。

しかし、ソ連軍の侵攻を食い止めるには、もはや彼らの到着を待っている時間的余裕は残されていなかった。

 

そこで連隊長の池田末男は兵士たちに語りかけた。

我々は大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。

しかし、事ここに至った。

もはや降魔の剣を振るうほかない。

そこで敢えて皆に問う。

諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕もって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。

 

異を唱えるものは一人もいなかった。

 

18日午前5時半頃、全員が玉砕を決意し、これを受けて敵軍に向けて出撃を開始。

池田は左手に軍刀を持ち、右手に日章旗を掲げ、ソ連軍に突入。

ついに、戦車第11連隊は四嶺山を奪還し、ソ連軍を竹田浜方面へ撃退するも、その後の戦闘で池田は乗っていた戦車が攻撃を受け戦死。

 

その後、竹下三代二少佐率いる独立歩兵第283大隊は国端崎に向け前進し、ソ連軍がすでに占領していた防備の要所を奪還。

ソ連軍はこの地の再奪取を目指して攻撃を開始し、激しい戦闘となった。

しかし、独立歩兵第283大隊は大隊長である竹下が重傷を負い、副官以下50名あまりが戦死しながらも、要地を確保して第73旅団主力の四嶺山南側への集結を援護することに成功した。

 

このまま日本軍が攻撃を続ければソ連軍を水際で殲滅していたかもしれないが、この自衛の戦いを終結させた人物がいた。

それが関東軍参謀長であった秦彦三郎中将である。

小官本十九日東蘇軍最高司令官「ワ」元帥ト會見ノ際北東方面ノ戰闘未ダ終熄セザルヲ心痛致シ在ル旨述ベ小官ノ斡旋方依頼アリタリ至急処置相成度

つまり、日本軍の想定外の抵抗によりソ連側の被害が甚大となったため、急きょソ連軍の極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥が秦に仲介を求めてきたのだ。

ワシレフスキー

秦は相手の申し入れを受け、ただちに停戦することを日本軍に要請。

そのため日本軍は優勢であったにもかかわらず、武装解除を余儀なくされ、8月21日ついに現地の日ソ両軍間で停戦交渉が成立。

同日午後、堤師団長とソ連軍司令官グネチコ少将が会同して降伏文書の正式調印が行われ、23日にはソ連軍の監視の下で武装解除が行われた。

 

この戦いにおける日本軍の損害は戦傷死者約600人、戦車42両。

対するソ連軍は艦艇の撃沈14、舟艇の撃沈20、死傷者約3000人と日本軍とは比較にならないほどの損害を出した。

ソ連側司令官は後に「甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」と回顧録を残し、当時のソ連政府機関紙「イズベスチャ」は、占守島の戦いについて、次のように書いている。

占守島の戦いは、満州、朝鮮における、どの戦闘よりはるかに損害が甚大であった。

8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である。

 

大本営の命令に背いて18日以降も戦闘を続けた樋口らの行動は、他の連合国にも戦争再開の口実を与える可能性もあり危険な行為であったが、司令官である樋口の誇りある決断を受けた守備隊が勇敢に戦ったこともあり、北海道の半分をソ連に占領されることは免れることができた。

しかし、ソ連の理不尽さはこの後も止まることを知らず、占守島上陸作戦失敗の後も南樺太を占領したほか、択捉島や国後島なども不法に支配し、我が国固有の領土である北方領土はいまだにロシアから返還されていない。

 

加えて、ソ連軍が侵攻した満州や北朝鮮・南樺太・千島列島で武装解除された日本軍兵士のうち、60万人近くがシベリアに抑留され、極寒の地における長期間の過酷な強制労働によって約6万人もの人々が亡くなったという悲劇があったことを、私たちは決して忘れてはならない。

 

なお、陸上自衛隊第11旅団第11戦車大隊は、この戦いを顕彰し伝統を継承するために、1970年(昭和45年)より「士魂戦車大隊」を部隊の非公式愛称としており、彼らの戦車には砲塔側面に「士魂」の文字が描かれている。

 

 

樋口季一郎が救った「日本列島国家分断」の危機

そもそも1941年(昭和16年)に日本とソ連の間で締結された日ソ中立条約は、条約の締結によりソ連を枢軸国(連合国と戦う諸国)側に引き入れ、国力に勝るアメリカに対抗することを目的としていた。

この条約により、ナチス・ドイツとの戦いを準備していたソ連はシベリアの部隊をヨーロッパ戦線に送り込むことができ、一方の日本軍も満州の部隊を引き揚げて太平洋戦線に投入することができたのだ。

 

しかし、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談において、ソ連から出された以下の要求に応じる代わりとして、日ソ中立条約の一方的破棄およびドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月後には、ソ連が連合国側において日本に対する戦争に参加することが、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、イギリスのチャーチルの間で秘密裏に取り決められた。

  •  ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持すること
  •  樺太南部をソ連に返還すること
  •  千島列島をソ連に引き渡すこと
  •  満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保すること

ヤルタ会談

当時アメリカは自国民の戦争犠牲をなるべく少なくすることを狙っており、そのためには、ソ連の対日参戦が必要だったのだ。

 

ドイツが1945年(昭和20年)5月8日に無条件降伏すると、8月8日にソ連はこの協定に従い日本に宣戦布告。

8月10日、日本がポツダム宣言の受諾を連合国へ伝達したにも関わらず、翌11日には南樺太の国境を越えて満州に侵攻してきた。

8月14日、日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したことを受けて、アメリカは停戦命令を出すが、ソ連はその後も攻撃の手を緩めず、カムチャッカ半島方面から千島列島に侵入する。

これが占守島の戦いである。

 

無条件降伏を受け入れた日本は、当然戦争の継続を断念しており、そのような日本に対し我が国固有の領土への侵攻を開始したソ連の意図とは?

 

その答えは明らかに「侵略」であった。

ソ連軍の狙いは降伏した日本において、火事場泥棒的に北海道を占領することだったのだ。

1945年(昭和20年)9月2日、スターリンはこの戦争の目的が日露戦争への報復と領土の獲得だったことを明確に述べている。

1904年の日露戦争でのロシア軍隊の敗北は国民の意識に重苦しい思い出をのこした。この敗北はわが国に汚点を印した。わが国民は、日本が粉砕され、汚点が一掃される日がくることを信じ、そして待っていた。40年間、われわれ古い世代のものはこの日を待っていた。そして、ここにその日はおとずれた。きょう、日本は敗北を認め、無条件降伏文書に署名した。
このことは、南樺太と千島列島がソ連邦にうつり、そして今後はこれがソ連邦を大洋から切りはなす手段、わが極東にたいする日本の攻撃基地としてではなくて、わがソ連邦を大洋と直接にむすびつける手段、日本の侵略からわが国を防衛する基地として役だつようになるということを意味している。

 

スターリンによる北海道北部(釧路と留萌を結ぶ線の以北)の割譲要求はトルーマンにより拒否されるが、このことからもソ連の「日本列島国家分断」という野望が見てとれる。

千島侵攻を足がかりに一気に北海道まで占領しようとするソ連軍を、占守島の日本軍が命がけで食い止めたことで、ソ連軍の千島列島での戦いは予想以上に時間がかかり、この間にアメリカ軍の北海道進駐が完了できたので、北海道をソ連に占領されることが避けられたのである。

 

多くの犠牲を出しながらも、日本を「分断国家の悲劇」から救った占守島の戦い。

北方における軍部の最高司令官として樋口季一郎が下したこの勇気ある決断に、すべての日本人は感謝すべきなのである。

 

 

ユダヤ人の恩返し

一方で、樋口に北海道占領という野望を打ち砕かれたスターリンは激怒。

スターリン

終戦後、日本を占領下に置いていたアメリカに対し、ソ連は樋口を戦犯と指名して身柄を引き渡すよう要求してきた。

ソ連にしてみれば、樋口はハルビンにおいては特務機関長、つまり対ソ連情報活動のトップであった上に、占守島において甚大な損害をもたらした憎むべき敵司令官であったからだ。

 

しかし、日本に進駐していた連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官のダグラス・マッカーサーがこれを断固拒否。

マッカーサー

それどころが「樋口を擁護せよ」という指示まで出された。

さらに大日本帝国陸軍の司令官という地位にありながら、敗戦国の指導者を裁く東京裁判にも呼ばれることはなかった。

 

一体なぜか?

 

樋口がその理由を知ったのは終戦から5年が経過した1950年のことだった。

この年、ユダヤ人天才物理学者アインシュタイン博士が来日。

その折、渋谷のユダヤ教会でユダヤ祭りが開催されることとなった。

このパーティーに来賓として招かれた樋口は、そこでパーティーの幹事であったミハイル・コーガンから驚くべき事実を聞かされる。

 

実は、ソ連からの樋口の身柄引渡し要求を断固拒否した連合国軍総司令部(GHQ)の背後には、アメリカ国防総省からの指示があったのだ。

そして、その国防総省に大きな影響力を持っていたのがニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会。

戦時中に樋口が助けたユダヤ人難民のうち、何人かは世界ユダヤ協会の幹部になっており、こうしたソ連側の動きを察知するやいなや、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家が一大ロビー活動を繰り広げ、アメリカ国防総省に樋口の救出を働きかけてくれていたのだ。

 

それは、かつてシベリアの地において満州への入国を拒否され、極寒の中いまにも潰えるかに思われた命運を人道愛にあふれた決断で救ってくれた樋口へ、ユダヤ人たちからの心よりの恩返しだった。

 

なお、このミハイル・コーガンは、「スペース・インベーダー」が空前の大ヒットとなり、戦後日本のアミューズメント界の発展に大きく寄与した「タイトー」の創業者で、1938年(昭和13年)にハルビンで開催された「第2回極東ユダヤ人大会」では、シオニスト青年団の1人として参加し、ハルビン特務機関長にあった樋口に出会っている。

 

コーガンからこの話を聞かされた樋口は「私は人間として当然やらなければならないことをやっただけである」と呟いたという。

 

終戦後、駐留軍や企業の顧問など様々な仕事の依頼をすべて断り隠居生活を貫いた樋口は、1970年10月11日に82年の生涯を静かに閉じた。

 

現在、イスラエルの「ゴールデン・ブック」には、「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と名前が刻印され、その功績が高く顕彰されている。

こうして多くのユダヤ人の命を救った樋口季一郎はユダヤの歴史に名を残したのである。

 

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