2016.02.15 杉原千畝

ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(2)シンドラーとは?

9
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ユダヤ人を助けた人は「○○のシンドラー」

杉原千畝は「命のビザ」発給により“日本のシンドラー”と呼ばれるようになったが、元となる「シンドラー」とはどのような人物だったのか?

 

 「日本のシンドラー」のモデルとなったシンドラーとは?

オスカー・シンドラーはドイツ人の実業家で、第二次世界大戦中、自身が経営する工場で必要な人員確保という名目のもと、約1200人ものユダヤ人の命をナチスによるガス室での虐殺から救った人物である。

オスカー・シンドラー
彼は1908年4月28日、当時オーストリア・ハンガリー帝国領だったメーレン地方(モラヴィア地方)のツヴィッタウ(現・チェコのスヴィタヴィ)において、農業機械の工場を経営する父ヨハン・ハンス・シンドラーと母フランツィスカ・ファニーの間に長男として生まれた、エルフリーデという妹が一人いた。

 

ユダヤ人の救世主はナチ党員!?

シンドラーは1935年にはズデーテン・ドイツ人の指導者的存在だったコンラート・ヘンライン率いる「ズデーテン・ドイツ郷土戦線(後のズデーテン・ドイツ人党)」というドイツ系ズデーテン住民によるドイツ民族主義的な政党に入党した。

ここを通じてヴィルヘルム・カナリス提督率いるドイツ国防軍諜報部「アプヴェール」と接触し、その諜報員として現在のチェコやポーランドで活動。

チェコにおける彼の諜報活動が露見した際、大叛逆罪の罪で死刑の宣告を受けるが、1938年10月にドイツ軍によるズデーテン併合があったため、刑の執行は中止された。

その後シンドラーは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に志願して入党。

アプヴェールでの仕事から身を引き、ドイツのポーランド侵攻に合わせ、戦争での一儲けを狙い、ポーランドのクラクフにやってきたのだ。

 

何がシンドラーにユダヤ人救出を決心させたのか?

1939年10月、ポーランドへやってきたシンドラーは、まず最初にナチスによる没収前はユダヤ人の所有であった、落ちぶれたホーロー容器工場を買い取る。

彼は、後に深い友情で結ばれることになるユダヤ系ポーランド人会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大。

ドイツ軍の厨房用品を製造するなどして急激な成長を遂げた彼の工場は、わずか3カ月で250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者も含まれていた。

彼の工場は1942年末までに、巨大なホーロー容器工場から軍需工場に成長していった。

広大な敷地に800人近い労働者が働いており、その中にはクラクフ・ゲットーのユダヤ人370人もいた。

ユダヤ人救済というシンドラーのナチス党政権への抵抗は、イデオロギー的な理由からではなかった。

彼は無力なユダヤ人住民たちに対するナチスの非道に異を唱えたのだ。

 

シンドラーが行動を起こす契機となったのが、1943年(昭和18年)のクラクフ・ゲットーが解体である。

ゲットーにいたユダヤ人たちはプワシュフ収容所に送られることになったが、ここには残虐非道なサディストとして悪名高いアーモン・ゲートが所長として赴任していた。

アーモン・ゲート

身長192cm、体重120kgの巨漢であったゲートは、すぐにサディスティックな性向を示し始めた。

毎朝狙撃銃で囚人を無差別に撃ち殺し、ロルフとラルフと名付けた2頭の飼い犬の訓練と称してユダヤ人を生きたまま噛み殺させることを日課としていたという。

ゲートに直接殺害された囚人は500人以上にのぼるといわれ、そのため「プワショフの屠殺人」というあだ名をつけられた。

 

シンドラー自身もナチの党員であり大儲けを企んで占領下のポーランドにやって来たため、当初は金儲けにしか興味がなかったが、収容所での筆舌に尽くし難い蛮行を目の当たりにし、ついにユダヤ人を救い出すことを決意するのである。

 

ユダヤ人の頼みの綱「シンドラーのリスト」作成まで

シンドラーのユダヤ人救済において大きな助けとなったのは、彼の工場が“軍需工場”としてドイツ軍司令部からも認められていたことが挙げられる。

これにより、彼は経済面で大きな利益のある契約を締結出来ただけでなく、人道面でも彼の工場で働くユダヤ人たちが絶滅収容所(※)へ移送される危険が迫った時に、工場の生産ラインに不可欠な人員をだと主張することで子供や大学生を熟練の金属工と称して従業員リストを作成し、ガス室送りから救うことが出来たのである。(※絶滅収容所とは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、ベウゼツ強制収容所、ルブリン強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所、以上6つの強制収容所を指す言葉)

これがかの有名な「シンドラーのリスト」である。

 

ユダヤ人救出大作戦

1944年末、プワシュフはソビエト軍の侵攻により、すべての収容施設の解体を余儀なくされ、ここにいた20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。

ユダヤ人の身に迫る危機から救い出したい一心で、シンドラーはドイツ軍の司令官から、彼がズデーテン地方のブリュンリッツ(現・チェコのブルニェネツ)で新たに手に入れた工場で「軍需物資の生産」を継続するため、必要な人員を連れていくとことの許可を得た。

その労働力には、プワシュフの収容所からかなりの大人数が選ばれ、総数で800人にもなった。

そのうち700人がユダヤ人、300人が女性だった。

プワシュフの収容所からブリュンリッツ労働収容所への移送はグロース・ローゼン強制収容所を経由して行われた。

移送途中ですべての囚人は男であれ女であれ別の収容所に移される前にすべて検疫所に行くようにという親衛隊の指令書が届くが、グロース・ローゼン強制収容所には女性労働者たちを管理するのにはまだ充分な人員も施設もまだ準備されていなかった。

そのため彼女たちは60kmも離れたアウシュヴィッツに送られそうになるが、間一髪のところでシンドラーによって助けだされる。

シンドラーはゲシュタポとの間で、ユダヤ人1人当たり1日につき7マルク支払うという約束を取り付け、彼の秘書がアウシュヴィッツから女性たちを移送する交渉を行ったのである。

絶滅収容所の運用期間中において、これほど多くの集団が収容所を出て行くことが許されたケースは他に類を見ない。

 

ちなみに、ブリュンリッツ工場は兵器工場として分類されたが、操業8か月近くで積荷一個分だけの実弾を生産しただけであった。

シンドラーは偽りの生産数を提示して、ドイツ当局にその存在を正当化したのだ。

彼の勇気ある行動により1200人ものユダヤ人がその尊い命を救われた。

 

戦後、シンドラーは事業を起こすためアルゼンチンに渡るが、その時はほとんど無一文だったという。

文字通り、全私財を投じてユダヤ人の救出を行った結果である。

しかし、アルゼンチンでの事業は失敗。

その後、ドイツに帰国するが「元ナチ党員」のため、銀行の融資が受けられずまたも事業は失敗。

次から次へと事業を起こしては失敗し、資金繰りに奔走するなど非常に苦しい生活を強いられていた。

そんなシンドラーの噂は彼が救ったユダヤ人にも伝わる。彼らは、シンドラーをイスラエルに招待した。

この時点から、オスカー・シンドラーの「二重生活」が始まる。

つまり、年の半分はフランクフルトで過ごし、残りの半分をエルサレム在住の、彼が救ったユダヤ人たちの下で過ごすということである。

このような生活は、彼が1974年にドイツのヒルデスハイムで死ぬまで続けられた。

彼の墓は彼自身の希望により、エルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。

シンドラーのお墓

 

終戦後、シンドラーのもとに一つの指輪が送られた。

これは彼が救い出したユダヤ人たちが感謝の印に、彼らに唯一残されていた金歯から作ったもので、そこにはユダヤ教の聖典であるタルムードにある「一人の人間を救う者は世界を救う」という言葉が刻まれていたという。

 

ハリウッドで映画化、そしてアカデミー賞

この話はユダヤ系アメリカ人であり、ハリウッド映画界の巨匠でもあるスティーヴン・スピルバーグによって1993年に映画化されており、第66回アカデミー賞では12部門にノミネート、そのうち作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、編集賞、美術賞、作曲賞の7部門を受賞した。

ドイツ人のシンドラーは約1200人のユダヤ人を救った。

 

一方で、この狂気の時代に極東の島国の一人の外交官の勇気ある行動によって6000人ものユダヤ人の命が救われたことは、これほど広くは知られていない。

 

 

<<(前ページ)外交官を目指すまで

>>(次ページ)緊迫の欧州へ

 

【関連記事】

 


 

【一気読みしたい方はコチラで今すぐ登録!!】

杉原千畝氏のすべてがわかる!電子書籍(PDF)『杉原千畝物語』無料プレゼントいたします!

お名前 (必須)

メールアドレス (必須)

郵便番号 (必須)

※ ACTIONなう!は個人情報を厳重に扱います。上記フォームの入力で、利用規約とプライバシーポリシーに合意したとみなされ、メルマガ配信が行われます。メルマガはいつでも任意で配信解除が可能です。

 


【杉原千畝さんの業績を再評価し、国民栄誉賞を付与するための署名を行っています】

「命のビザ」で6000人ものユダヤ人を救った 「日本のシンドラー」杉原千畝氏に国民栄誉賞を!

↑ ↑ ↑ ↑

いますぐクリック!!

unnamed

杉原千畝関連記事

杉原千畝関連記事をすべて見る