2015.08.10 パラオ

【戦後70年】早わかり!日本人なら知っておきたい日本の戦争 〜第2回 満州事変、日中戦争〜

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「日本の生命線」満州の植民地化ねらい満州事変が起きる

日本の戦争第2回目は昭和から始まります。

1928年(昭和3年)、中国・蒋介石の国民党軍と衝突し、敗れた満州の軍閥の張作霖が爆殺されます。
張作霖は、満州(中国)の大物軍人で、日本をバックに国民党軍と戦っていたのですが、だんだん日本の言うことをきかなくなっていました。

日本陸軍は、張作霖を秘密裏に亡きものにし、日本軍自らが満州を統治することを考え出します。
そして張作霖が北京から奉天に移動した列車が爆発、彼は殺害されてしまいます。

もちろん首謀者である関東軍は知らないと言いはる。
しかし陸軍の謀略であることが徐々に明らかとなり、責任を取って田中義一内閣は総辞職することとなったのです。

1931年(昭和6年)、満州事変勃発。

満州事変とは、日本陸軍が工作により満鉄の鉄道を爆破、中国(支那)軍の計画的行動という形で合法的に(関東軍が)出動、満州の植民地化を図ったものです。

当時のマスコミは「満蒙(満州と内蒙古)は日本の生命線」としきりに叫び、日本の国民世論は植民地化すべし、一色だったのです。
こうした世論を背景に、陸軍が計画、まんまと奉天郊外の柳条湖付近の鉄道が爆破されました。
そして旅順の関東軍が出動します。

この陸軍計画のベースとなる構想をまとめた人がいます。
石原莞爾です。
陸軍学校の超優等生、「陸軍に石原莞爾あり」といわれ、天才的軍人として知られていました。

石原は、満州を得て発展させ、日本の国力を養う、中国とは戦わず日中共同で満州を育てていく、という構想を持っていました。

1928年(昭和3年)10月、石原は、関東軍の作戦参謀として旅順に赴任、その後も作戦構想を次々に打ち出し、1931年(昭和6年)5月に打ち出した「満蒙問題私見」では、今後の世界は、西洋の代表・アメリカと、東洋の日本との間の最終戦争で決まる、そのため早く満州を日本の領土にして、戦略拠点化することが必要だ、と記しています。

この石原の構想を受け、同年6月、参謀本部(陸軍)が「満州問題解決方策大綱」をまとめます。この中では、いきなり植民地にすることは難しいので、まず親日の政権を樹立、そのために皇帝(のちに清朝最後の溥儀)をおく計画を挙げています。これが満州事変につながっていくのです。

なお自国・満州で、このような状態になりながらも、まだ、蒋介石の国民党軍、毛沢東の共産党軍は、権力闘争を行っていました。

ca. 1940 --- Emperor Pu Yi (known as Henry Puyi in the west) was the last emperor of China. He was the first emperor of Manchuko from 1934-35, a puppet monarch for the Japanese. --- Image by © CORBIS

ca. 1940 — Emperor Pu Yi (known as Henry Puyi in the west) was the last emperor of China. He was the first emperor of Manchuko from 1934-35, a puppet monarch for the Japanese. — Image by © CORBIS

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5.15事件、2.26事件で軍人が日本を支配

1932年(昭和7年)、日本国内で5.15テロ事件が起きます。
陸海軍の軍人が時の内閣・政治を批判、犬養毅首相を暗殺してしまいます。
これにより政党政治は息の根を止められ、軍人が政治・言論を支配していくことになるのです。

満州への日本軍進出に対する国際社会の目が厳しくなる中、日本は同年3月、満州に清朝最後の皇帝・溥儀を傀儡として君臨させ、中国から独立させます。
映画「ラストエンペラー」は有名ですね。

中国本土では、権力闘争は続いていましたが、反日運動も激化していくことになります。

満州国を中国から独立させた、といいましたが、その独立を認めていたのは、なんてことはない、日本だけでした。

1933年(昭和8年)、国際連盟は満州国の実態を調査するため、イギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団を派遣します。
その調査結果を受け、国際連盟は日本軍の満洲からの撤退勧告を採択しました。
そうです、国際社会は満州国の独立を認めなかったのです。

この採択を不服として日本は国際連盟から脱退してしまいます。
日本国内では「栄光ある孤立」を選んだと、国民的熱狂が起こります。潔(いさぎよ)い、ということだったのでしょうね。

しかし世界から孤立することは、実は大変、恐ろしいことだったのです。
この後日本には、アメリカ、イギリスの戦争準備状況などの情報が、ほとんど入らなくなってしまったからです。

1936年(昭和11年)、日本国内で2.26クーデター事件が発生。
5.15事件に対し、今度は比べ物にならないほどの大規模なものでした。

2.26の背景には陸軍内部の派閥争いがあった、などといわれています。
とにかく、2.26では1483人もの軍人が参加、計画的反乱、つまりクーデター(政変)を起こしたのです。
内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清らが暗殺されてしまいました。

クーデターは鎮圧されますが事件後、広田弘毅内閣は、「軍部大臣現役武官制」導入、ドイツとの「防共協定」締結、対ソ連で北方を守りながら南へ進む「北守南進」政策などを展開していくことになります。

「軍部大臣現役武官制」とは、軍人でなければ陸海軍大臣になれない制度で、陸海軍が賛成しなければ内閣が組織できない、つまり内閣の存廃が軍の思うままになる、ということです。

「防共協定」は、当時同じように国際連盟を脱退した、ヒトラー政権によるドイツと手を結び、満州ヘのソ連南進を牽制しようというものです。

そして「北守南進」は、ソ連に対し北方を守りながら、南方へ進むという、陸軍エリートが考えた国策です。これは南方を植民地としていたアメリカ、イギリスとぶつかることを意味します。

このようにテロの恐怖により、ますます軍人の意見が取り入れら、戦争体制が押し進められることになるのです。

こんなとき中国では、日本にとって大きな影響のある出来事が起きました。
毛沢東の中国共産党軍と、国民政府軍が手を結んだのです。
そうです、中国では、1936年(昭和11年)終わり頃、ついに対日抗戦への転換がなされたのです。

Rebel_troops_in_February_26_Incident

盧溝橋事件で泥沼の日中戦争へ

1937年(昭和12年)7月、盧溝橋事件が発生します。

日本の中国駐屯軍が、天津の盧溝橋付近で演習中、中国軍側から実弾が撃ち込まれた、とされるもので、これに対し日本軍が攻撃を始め、とうとう日中間で日中戦争が始まってしまいました。
この「運命の一発」については、日本側の工作によるものか、中国側が撃ったのか、真相はわからないままだそうです。

満州事変での「満州」は中国の一部だったのですが、今度は、とうとう中国全体との戦争になってしまうのです。

本格的戦闘が始まり、日本軍は初め快進撃を続け、同年末には当時の首都・南京を陥落します。
しかし共産党軍によるゲリラ戦が続き、結局ここから泥沼の戦争が始まってしまいました。

当時の首相は近衛文麿、彼は「中国なにするものぞ」という考えの持ち主でした。
石原莞爾は早期解決を考えていた一人で、そうした人々の働きかけにより実際、和平の機会も多くあったのですが、近衛首相が強硬的姿勢であったため講和が成立しません。

この泥沼の日中戦争を解決するため、中国を援助している「米英との戦争」も日本の中で浮上することになります。
このころ、日本海軍では対英米強硬論が支配的になっています。

この危険な考え方を牽制していた、米内光政、井上成美、そして山本五十六ら、海軍の良識派軍人たちですが、彼らは残念ながら海軍の少数派でした。

山本五十六らは、日本の国力を考え、英米と衝突することは、とんでもない、というリアルな認識を持っていたのです。
しかし軍部、そして国民世論の対英米強硬論は日増しに高まっていってしまったのです。

※半藤一利氏の「昭和史」に基づく  写真:ウィキペディア

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