2015.07.24 杉原千畝

誇れる日本人「奇跡の将軍」樋口季一郎物語(中)

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「奇跡の将軍」大日本帝国陸軍中将 樋口季一郎

極寒のシベリア鉄道オトポール駅において、満洲国への入国を拒否され、行き場を失い路頭に迷うユダヤ人を目の前にした樋口の英断。

軍部の反対を押し切ってユダヤ人を救った功績は、遠く離れたリトアニアの地で同じく外務省の反対に遭いながらもユダヤ人の救出に尽力した杉原千畝と等しく評価されるべきであり、まずは杉原千畝の功績を広く周知することにより、樋口の功績をも再評価することにつなげていきたいのである。

 

オトポール事件の波紋

ナチス・ドイツの迫害から逃れるため、家畜同然に列車に詰め込まれ、命からがら極東の地にたどり着いたユダヤ人たちを待っていたのは満州国からの非情な入国拒否。

生きて第三国に渡るためには引き返すことなど出来るはずもなく、気温が零下30度にも達する極寒のシベリア鉄道オトポール駅において、進退窮まり立ち往生するユダヤ人たち。

これがいわゆる「オトポール事件」である。

 

樋口は事件の一報を聞くやいなや、軍部の反対を押し切り彼らに救いの手を差し伸べ、食料も底を尽き、餓死と凍死の危機に瀕していたおよそ2万人ものユダヤ人の命を救った。

人道的見地からみれば賞賛されるべき樋口の行動であったが、彼の置かれた立場では事はそう簡単にはおさまらなかった。

というのも、樋口は単なる一市民ではなく、あくまでも大日本帝国陸軍の軍人であり、関東軍においては将軍の地位にあったからである。

そのような立場にある者が、同盟国であるドイツを非難する演説を極東ユダヤ人大会で行い、さらにはドイツの国策に反してユダヤ人を救出したことは大きな外交問題へと発展。

 

当然のようにドイツは激怒し、ヒトラーの腹心であるリッペントロップ外相がオットー駐日大使を通じ、日本外務省に対して公式の抗議書が届けてきた。

今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携、日に濃厚を加えつつあることは欣快とするところである。

然るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将が、ドイツの国策を批判し誹謗しつつありと。もし然りとすれば日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。

請う。速やかに善処ありたし。

これに動揺した外務省欧亜局は、ただちに抗議書を陸軍省に回送。その後抗議書は樋口が籍を置く関東軍司令部へも届けられた。

外務省、陸軍省内部では樋口の独断を問題視する声が相次いでいたが、ここにきて関東軍内部でも樋口に対する処分を求める声が強まっていった。

 

これに対し樋口は、関東軍司令官植田謙吉大将に自らの思いをしたためた手紙を書き郵送。

小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。

満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。

法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。

たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。

 

さらに関東軍司令部に出頭した樋口は東條英機総参謀長と面会。

自らの決断の正当性をきっぱりと主張した。

ヒトラーのおさき棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか?

 

結局、この言葉に納得した東條は樋口に対して懲罰を科すことはなかった。

さらに東條はドイツからの再三の抗議に対しても「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」とこれを一蹴。

「カミソリ東條」とも揶揄され、頑迷で強引な性格で知られる東條だが、一方で道理の通った話には理解を示す人物だったのだ。

関東軍司令部内での樋口を非難する声は東條の決断を受け下火となり、植田軍司令官もこの決断を支持したことによりこの問題は一気に鎮静化。

ドイツの抗議は不問に付されることとなった。

 

 

アッツ島の悲劇と樋口季一郎の苦悶

樋口が極寒のシベリアの地において多くのユダヤ人の命を助けた「オトポール事件」から3年後の1941年(昭和16年)12月8日、日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告し、ついに大東亜戦争が開戦する。

ハルビン特務機関長の任を終えた樋口は、参謀本部第二部長や、金沢の第九師団長を務めた後、1942年(昭和17年)に札幌の北部軍司令官に赴任。この軍司令官時代に、樋口はアリューシャン列島のアッツ島・キスカ島の戦いと、占守島の戦いという重要な局面に立ち向かうことになる。

なお、この任務がのちに樋口を苦悶させる究極の選択を迫ることになろうとは、この時は誰にも予想できないことであった。

 

日本軍は真珠湾攻撃でアメリカ軍に大打撃を与え、次いでマレー沖海戦でも、イギリスの誇る不沈戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』および『レパルス』を撃沈させるなど順調な滑り出しを見せた。

しかし、連合艦隊司令長官の山本五十六大将は日本とアメリカとの戦力差を承知しており、「アメリカにもう一度大打撃を与え、その上で早期講和を目指す」という構想を持っていた。

 

そこで考えられたのが「ミッドウェー攻略作戦」である。

これは北太平洋のハワイ諸島北西にあるミッドウェー島を攻略することにより、アメリカ艦隊、特に空母機動部隊を誘い出して捕捉撃滅することを目指すというものだった。

そして、このミッドウェー作戦をアメリカ軍にさとられないために陽動作戦として考えられたのが「アリューシャン攻略作戦」であり、これにより日本軍はアリューシャン列島の西端に位置するアッツ島とキスカ島を占領。

しかし、ミッドウェー攻略作戦の前哨戦であるミッドウェー海戦において、日本軍は基幹となる航空母艦4隻すべてを喪失するという大敗を期し、「ミッドウェー攻略作戦」はもろくも瓦解する。

 

そして日本をめぐる戦況は徐々に悪化していった。

 

1943年(昭和18)4月18日、北部軍司令官として赴任していた樋口はアッツ島に対して新たな守備隊長を選んで送り出した。それが山崎保代大佐である。

山崎保代

 

送り出すに際し、樋口は山崎に力強く約束する。

「アッツ島に事あらば、万策を尽くして増援する」

 

山崎はその言葉を受け、樋口に全幅の信頼を寄せてアッツ島へ着任。

 

同年5月12日、いよいよアメリカ軍のアッツ島への攻撃が開始。

報せを受けた樋口は、武器・弾薬・食料・資材などを輸送する準備を始め、山崎との約束を果たすべく増援部隊を送るための懸命の努力を重ねていた。

 

しかし、そんな樋口のもとに、5月20日、大本営より驚くべき内容の電報が届けられる。

「アッツ島への増援を都合により放棄する」

 

つまり、アッツ島の守備隊は見殺しにする、という非情な通告であった。

 

戦局が悪化しつつあった1943年(昭和18)当時、サイパンなど南太平洋方面での敗戦による兵力の消耗があまりにも激しく、北太平洋のアリューシャン諸島まで増援部隊を送る余力が、もはや日本軍には残されていなかったのだ。

それゆえの大本営によるアッツ島増援放棄という決定であり、戦況を考えれば、この判断も理解できないわけではなかった。

しかし、孤立無援の中、死力を尽くして戦っているアッツ島守備隊のことを考えると、そのように気持ちを割り切ることもできず、樋口は我が身の無力さを嘆きつつ、大本営の命令を涙ながらに受け入れたのだっだ。

 

5月21日、樋口は断腸の思いでアッツ島に向けて増援ができない旨の電信を送る。

中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は、現下の情勢では不可能となれり、との結論に達せり。

本官の力及ばざること、誠に遺憾に耐えず、深く陳謝す。

 

これに対し、翌22日、山崎大佐からの返電

戦さする身、生死はもとより問題にあらず。

守地よりの撤退、将兵の望むところにあらず。

戦局全般のため、重要拠点たるこの島を力及ばずして敵手に委ねるに至るとすれば、罪は万死に値すべし。

今後戦闘方針を持久より決戦に転換し、なしうる限りの損害を敵に与え、九牛の一毛ながら戦争遂行に寄与せんとす。

なお、事後、報告は戦況より敵の戦法およびこれが対策に重点をおく。

もし将来、この種の戦闘の教訓としていささかでもお役に立てれば望外の幸である。

その期至らば、将兵一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず。

覚悟を決めた山崎からの返電には、見捨てられたことへの恨み事など一切なかった。

司令部作戦室は水を打ったように静まり返り、無念のあまり嗚咽さえ漏れたという。

 

その後1943年(昭和18)5月29日、山崎大佐よりの最終打電

アッツ全戦線を通じ、戦闘し得る者僅々一五〇名となったから、本夜、夜暗に乗じ全員敵中に突入する考えである。

私共は国家民族の不滅を信じ散華するであろう。

閣下の武運長久を祈る。

各位によろしく伝達ありたし。

天皇陛下万歳。

これと共に通信機を破壊する。

 

圧倒的な兵力を誇るアメリカ軍を前に山崎率いる守備隊はほぼ全滅。
アッツ島

戦死者は2,638名であった。

こうしてアッツ島攻略戦はわが国初の玉砕戦として幕を閉じた。

 

なお、アッツ島での玉砕直後に、悲報を耳にされた昭和天皇は「アッツ島守備隊は最後までよく戦った」という惜別の電報を、すでに受け手のいなくなったアッツ島に向けて発するように命じられたという逸話が残されている。

 

 

「キスカ島撤退作戦」樋口季一郎の奇跡

アッツ島での悲劇を防げなかったことに対し、司令官たる樋口の抱えた苦しみは計り知れず、多くの部下を死なせてしまったという自責の念から食事も喉を通らなくなり、体重は20キロ近くも減り、頬はこけて容貌はすっかり変わってしまったという。

 

しかし、一方で北部軍司令官という立場の責任感を誰よりも理解していた樋口は、この苦渋の選択と引き換えに別の条件を大本営に突きつけていたのだ。

 

それはキスカ島に残された将兵を全員無事に撤退させること

 

「アッツ島の二の舞いは断じて踏ませない」

樋口の必死の思いはやがて実を結び、潜水艦を使ってキスカ島の将兵を少しずつ撤退させ始めたが、アッツ島が陥落したことでこの地域の制海権も制空権もアメリカ軍に握られており、5000人近くの将兵をアメリカ軍に知られることなく撤退させることは容易ではなかった。

 

そこで樋口は一計を案じる。

 

それは、この地方特有の濃霧に紛れて、速度の早い巡洋艦あるいは駆逐艦で素早くキスカ島に突入し、残りの守備隊全員を一挙に撤収させようというものだった。

作戦決行の当日は前も見えないほどの濃霧が出たことも味方し、突入からわずか55分という短時間で将兵を一人も残すことなく全員が無事に乗船し、作戦は大成功をおさめる。

キスカ島撤退作戦は、島に残っていた各種の兵器こそ遺棄せざるを得なかったものの、包囲していたアメリカ軍にまったく気づかれることなく、守備隊全員を無傷で撤収させることに成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれている。

 

一方、日本軍がすでに完全撤退していることを知らないアメリカ軍は、艦隊による十分な艦砲射撃を行った後で濃霧の中いっせいに上陸を開始。

 

しかしあたりは前も見えないほどの濃霧。

霧-2(カラー調整)

気がつけば激しい同士討ちの状態に陥っており、けが人どころか死者まで出す有り様で、上陸したアメリカ軍の見たものは、遺棄された数少ない軍需品と数匹の犬だけであった。

かくして散々な目にあったアメリカ軍は、自重の意味も込めて日本軍のキスカ島撤退作戦を「パーフェクト・ゲーム」と称した。

確かに、このような悪条件の下で、完全な撤退を成功させるということは世界戦史上類を見ない。

では、完全な撤退を成功へと導いた要因とは?

もちろん現地の海軍の指揮官の好判断によるものも大きかった。

しかしそれと同時に「将兵を一人たりとも残さず生還させる」という樋口の強い思いがあったからこそ奇跡を起こすことができたのである。

 

後年、樋口は「いかにしてかかる巧妙なる作戦が可能であったか、その秘策を問う」と聞かれた際、成功の要因をこのように語っている。

秘策など何もなし。

あるとするならば、濃霧を利用したと云うことに尽きる。

それに海軍の友軍愛だ。

なお神秘的の言辞を弄し得んとすれば、それはアッツ島の英霊の加護である。

何となれば、アッツ部隊があまりに見事なる散華全滅を遂げたから、米軍はキスカ部隊も必ずやアッツの前例を追うならんと考え、撤収など考慮に入れざりしならん。

もしキスカ部隊あるいは撤収すべしと考え、米軍がこの考えで査察したとせば、撤収なかばにして該企図をしたるなるべし。

この意味において日本軍の企図を秘せしめたるは、アッツ島の英霊とも云い得る。

 

キスカ島撤退作戦の成功は、アッツ島の将兵を犠牲にせざるを得なかったにしても、「キスカ島の将兵は必ず守る」という樋口の強い意志と誇りある決断がもたらした奇跡でもあったのだ。

 

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