2015.07.24 教科書

GHQによる巧みな「宣伝」の実態

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政治のメディア規制への欲求は本能的?

2015年6月に行われた自民党の「文化芸術懇話会」の席上、出席した議員から、「偏向した新聞が広告収入を得られないように、経団連に働きかける」というような意見が出され、批判を浴びました。

言論の自由・万年筆

強い批判があったということ自体、報道の自由、言論の自由が侵されることに対して、我が国が非常に敏感であるという「民主主義の健全性」を示していると言えます。

一党独裁国家では、広告を掲載しないような圧力どころか、政治権力が報道や言論の内容をいまだにコントロールしているのですから。

しかし、終戦後の日本は、GHQにより「民主化」が図られたといいながら、前回述べたように、「報道の自由」「言論の自由」は、実質上ありませんでした。

情報をコントロールしながら、巧みに世論誘導を図っていったのです。

 

GHQによる言葉狩り─大東亜戦争の呼称禁止

GHQは、「検閲」と「宣伝」を巧みに組み合わせ、日本国民に、戦争に対する罪悪感を「WGIP」を徹底させ、刷り込んでいきました。

マッカーサー元帥の像原爆報道を行った朝日新聞を発行停止にしたことは前にも述べましたが、検閲の一方で、新聞を宣伝の媒体としても大いに活用したのです。

その一例が、「言葉狩り」でした。

我が国は、昭和20年8月15日に至るまで、「大東亜戦争」という呼称を用いていました。その言葉には、大東亜共栄圏を作るという戦争目的が反映されていました。

しかし、GHQは、「大東亜戦争」という呼称を用いることを禁止します。我が国の戦争目的を、まず、頭から否定したわけです。そのうえで、GHQは、マスコミに対し、「太平洋戦争」という呼称を用いるように求めました。

そして、昭和20年12月8日から、すべての新聞に「太平洋戦争史」(全10回)の掲載を指示します。終戦直後で紙の配給も逼迫していましたが、「太平洋戦争史」を掲載するために、紙が優先配給されました。

 

GHQ史観の宣伝媒体としてのラジオ

この「太平洋戦争史」をベースにして、ラジオでも昭和20年12月9日から、翌年2月10日まで、毎週日曜日、午後8時のゴールデンタイムに全10回、NHKラジオで「真相はかうだ」という番組が放送されました。

ラジオ

この番組は、GHQで教育やメディアの改革を担当していた民間情報教育局(CIE)のラジオ課が脚本、演出を手がけ、満州事変に始まり、日本が敗戦に至るまでの出来事を、「太郎君」の質問に「文筆家」が「真相」を明かすというドラマ形式の番組であり、番組の前後に当時人気の番組が配置されるという力の入れようでした。

「真相はかうだ」は、GHQ作成であることが隠されたため、NHKへ抗議が殺到しました。

GHQは、その成果を取り入れながら、それに続く番組を作成し、1946年(昭和21年)2月以降「眞相箱」、「質問箱」などへ形を変えながら昭和23年(1948年)1月まで放送されました。

「眞相箱」は、疑問に答えるという形式を取り、「大本営発表」で、虚偽の報道がなされた中で、国民に知らされなかった「真実」を明らかにするとともに、そこに、巧みな「宣伝」も埋め込まれていました。

その一つが、「南京の真実」でした。

 

宣伝を固定化した『陥落前の南京』

南京占領については、「陥落前の南京」という題名のもと、「日本が南京で行つた暴行についてその真相をお話し下さい」という質問に、以下のように答えています。

我が軍が南京城壁に攻撃を集中したのは、昭和20年12月7日でありました。

これより早く上海の中国軍から手痛い抵抗を蒙つた日本軍は、その1週間後その恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到したのであります。

この南京大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、實に婦女子2萬名が惨殺されたのであります。

南京城内の各街路は、數週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、またバラバラに散乱した死體で街全體が覆はれたのであります。

この間血に狂つた日本兵士らは、非戦闘員を捕へ手當り次第に殺戮、掠奪を逞しくし、また語ることも憚る暴行を敢て致しました。

日本軍入城後數週間といふものは、一體南京市中でどういふことが起こつたのか、非戦闘員たる中国人の保護に任ずるため踏み止まつた外国人が、一體どういふ運命に遭遇したのか、これは杳として知ることは出来ませんでした。

といふのはかかる真相の漏洩より豫想される不測の反響を慮つた我が軍が、あらゆる報道の出所を封じて、厳重なる検閲を實施したからであります。

(中略)

日本軍兵士は、街頭や家庭の主婦を襲撃し、暴行を拒んだものは銃劍で突き殺し、老いたるは60歳の婦人から、若きは11歳の少女まで見逃しませんでした。

そして中国赤十字社の衛生班が、街路上の死體片付けに出動するや、我が將兵は彼等の有する木製の棺桶を奪ひ、それを「勝利」のかがり火の蒔に使用致しました。

赤十字作業夫の多數が惨殺され、その死體は今まで彼らが取片づけてゐた死體の山に投げ上げられました。

また市内のある發電所では、日本軍により技師54名が殺害されました。

その後クリスマス當日には、日本軍當局は彼等の捜査に取りかかりましたが、それは發電所の復旧に彼等の必要を感じたからでありました。

(中略)

だが、かうした大規模な虐殺も、漸く日と共に下火になりました。

そして昭和13年3月政府の御用機關たる東京放送局は、次の如き出鱈目な虚報を世界に向けて送つたものです。

『南京においてかく多數を惨殺し、また財産を破壊した無辜の徒は、これを捕縛した上厳罰に處せられました。彼等は蒋介石軍にゐて平素から不満を抱いてゐた兵士の仕業であることが判明致しました』と。

死者が答えることは因より不可能なことであります。しかしながら我が軍がかかる惨虐行為を行つた隱れもない事實は、我が蒋兵の所持する寫眞によつて、遺憾なく暴露されてをります。

南京の暴行、これこそ中国をして、最後まで日本に抵抗を決意せしめた最初の動機となつたものであります

(連合国最高司令部民間情報教育局編

『真相箱―太平洋戦争の政治・外交・陸海空戦の真相』

コズモ出版社。昭和21年刊)

 

そして、東京裁判へ

このような「南京における日本軍の暴虐」は、やがて東京裁判へと引き継がれていくことになりました。GHQは、報道機関に厳しい検閲をする一方で、日中戦争から太平洋戦争に至る過程で、連合国側が喧伝してきた「日本=悪」の宣伝内容を、固定化しようとしました。

その目論見は、GHQによるメディアのコントロールと東京裁判で、「歴史的事実」として認定されることで、達成されたとも言えます。裏返せば、こういった戦時宣伝の産物が、我が国の教科書に「歴史的事実」として記載されるという、不幸な種を蒔いたとも言えるのです。

もちろん、その過程で、ひとりGHQだけがその役割を果たしたわけではありません。「教科書問題」の淵源のアクターを、さらに詳しく見ていくことにしましょう。

 

※希望日本研究所 第8研究室

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