2015.07.23 パラオ

【戦後70年】早わかり!日本人なら知っておきたい日本の戦争 〜第1回 日露戦争〜

3
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

暑いですね…
7月もあと少しで終わり。間もなく8月を迎えます。

8月といえば終戦記念日。
日本人は8月になると先の大戦を頭に浮かべるようです。
スクリーンショット_2015-07-22_17_28_28

今年は戦後70年。節目の年。
いまこそ日本人として、しっかりと”日本の戦争”について学んでおきたいものです。

今回は、明治以降の近現代史における”日本の戦争”について、通史をお伝えして参ります。

なぜか学校の授業では飛ばされ気味の気がする近現代史。軽視されがちな近現代史を(私の学校では明治維新が終わったらすぐ原爆まで飛んでしまった記憶が…)全8回のシリーズにして、わかりやすくまとめてみました。

まずは第2次世界大戦に日本が突入する、一番のきっかけとなった日露戦争(明治37年〜明治38年)から振り返っていきたいと思います。
一緒に学んでいきましょう。

1024px-Assaut-Kin-Tchéou

 

日露戦争、有色人種としては初めて白人に勝利

第二次世界大戦に日本が入る時の、きっかけとなった日露戦争は、1904年(明治37年)~1905年(明治38年)に日本とロシアが戦った戦争です。

日本はこの戦争に勝利しました。
世界の戦争の中で有色人種が白人に初めて勝った戦いで、世界中から驚きの目で見られ、有色人種の世界には大変勇気を与えました。

日露戦争は、そもそも帝政ロシアが、不凍港を求め(ロシアは大変寒い国、そこで凍らない港が必要だったのです)、満州に乗り込み、遼東半島の旅順・大連を自らの港にし、様々な権益を奪ったことから起こりました。
ちなみに満州とは、中国、当時は清国ですが、その東北部の地域を指し、遼東半島はその一部です。

日本は、そのロシアに脅威を抱き、その南下を抑えようとします。
南下が進めば日本とぶつかるわけですから、自存自衛、他国からの侵略を防ぎ自国を守るために戦争を起こしたのです。

日本は国を挙げて立ち向かいましたが、しかし兵力差はすごく、あるデータによれば、日本陸軍100万人余、ロシアは200万人余、海軍は日本約26万トン、ロシア約80万トン、圧倒的な違いですね。

激戦を重ね、映画でも有名な「203高地の戦い」、そして「日本海海戦」などを経て、からくも勝つことができました。

Nogi_and_Stessel

 

 

日露戦争勝利で満州の権益確保、石油などの資源を期待

こうして勝った日本は清国と「満州二関スル条約」を結び、諸権益を獲得します。
ロシアが持っていた遼東半島(関東州)を、清国から借り受け自由に使える権利や、南満州鉄道の経営権などです。

鉄道の安全を守るという趣旨で軍隊を置く権利も得ました。
「関東軍」と呼ばれた軍隊は当初1万人程度、最後には70万人にまで拡大するのです。

有色人種として白人に初めて勝ち、世界の大国として華々しくデビューした日本は、戦争で得た権利に基づく満州を、どう経営していくか、この明治末から大変大きな課題として抱えていきます。

なぜか?
日本は資源のない国、そこで満州に資源確保を期待したからなんです。

資源の乏しい日本は、石油、鉄などをアメリカ、あるいはイギリスなどの植民地・東南アジアからの輸入に頼っていました。
こうした資源が満州にないか、期待したのです。

ではどうだったのか?
満州に鉄、石炭はありました。
でも残念ながら肝心の石油、軍艦や飛行機の燃料になるものです、これは取れなかったんです。
本当に残念でした。

満州経営のもうひとつの要因は、拡大する日本国内の人口を流出させる場所としても重要視されたんです。
明治期から昭和にかけた移住者は50万人に拡大、最後には150万人近くまで住んでいた、といわれているんですよ。

自国の一部でロシア、日本により戦争が行われた、その清国では、孫文、蒋介石、有名な軍人たちですが、彼らによる辛亥革命が発生しました。
この革命により1912年(大正元年)、清朝は滅びてしまい、新たに中華民国が興ります。

中国はまさに激動の時代だったんです。(中国の歴史を振り返ると、ずーとそうだという指摘もありますが・・・)

Australian_infantry_small_box_respirators_Ypres_1917

 

第一次世界大戦に途中参戦、親日国パラオなどを統治

1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発。
ドイツを相手に、イギリス、フランス、ロシアを中心とした国が戦った、世界史史上初の世界大戦です。
戦死者は、なんと900万人ともいわれています。

日本は、この戦争に途中参加します。
当時日本は日英同盟を結んでおり、イギリスから要請を受けたのです。

結果、戦勝国側となるのですが、日本は、1919年(大正8年)、パリで結ばれたベルサイユ条約により、パラオをはじめとしたドイツ権益の南洋諸島を委任統治領としてもらい受けることになります。

今年、天皇陛下が慰霊に訪れたパラオです。
親日国パラオと日本の関係は、ここから始まるんですね。

この戦争のさなかの1915年(大正4年)、ヨーロッパ列強の目がアジアから離れたことをチャンスと見た日本は、中華民国に対し、南満州鉄道の経営権など21カ条の要求を認めさせます。
内戦状態ではありましたが当然、中国は日本への怒りを募らせることになります。

その中国(中華民国)国内では内戦が続いているのですが、大正末頃、蒋介石率いる中華民国の国民党軍が、毛沢東率いる中国共産党との戦いに勝利します。
共産党軍は南から北へ大陸を縦断しながら逃げ、それを追って国民党軍は北への進撃を始めるのです。

共産党軍はなんと1万km以上も徒歩で移動したといわれ、これが「長征」、それを追った国民党軍の進撃は「北伐」という言葉で、いまでも使われることがあります。

一方、その南下を恐れ、日本の仮想敵国であった帝政ロシアでは、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト政権(ソ連)が樹立、1917年(大正6年)から社会主義国家づくりが始まることになるんです。

第一次世界大戦での戦死者の多さや被害があり、その後、世界は軍縮傾向へ。
国際協調を図るために設立された国際連盟の指導もあり、日本はしぶしぶ、ワシントン海軍軍縮条約に調印、米英日の主力艦比率は5・5・3となります。

調印に日本は本当に不満でした。

この時、アメリカの巧妙な外交作戦で、日英同盟が廃棄されることになってしまいました。
アメリカは、万一日米が戦争をすると、同盟を結んでいるイギリスも相手にすることになり、比率が5対8で立場が逆転してしまう、と考えたのです。

1941年から始まった日米戦争は既に想定されていたのです。
ここから日本、日本海軍は、明治からの日本の国際社会での牽引役でもあった、米英を敵視していくことになるのです。

こうして日本を敗戦に至らしめた日米戦争の火種がつくられてしまったのです。

※半藤一利氏の「昭和史」に基づく  写真:ウィキペディア

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

タグ一覧

パラオ関連記事

パラオ関連記事をすべて見る