2015.07.17 杉原千畝

偉大な日本人「2万人のユダヤ人を救った正義の人」樋口季一郎物語(上)

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「2万人のユダヤ人を救った正義の人」樋口季一郎

命のビザによって大勢のユダヤ人を救い、「日本のシンドラー」としてその功績が広くユダヤ人社会の中で語り継がれている気骨の外交官「杉原千畝」。

一方、大日本帝国陸軍の軍人でありながら、同じく多くのユダヤ人の命を救い、イスラエルの黄金の碑に「偉大なる人道主義者」としてその名を刻まれ、イスラエル建国の功労者として永遠に顕彰されている日本人がいたことをご存知だろうか?

彼の名は「樋口季一郎」

Kiichiro_Higuchi

外交官と軍人、立場は違えども大勢のユダヤ人を救ったことにおいては等しく評価されるべきであり、まずは杉原千畝の功績を広く周知することにより、樋口の功績をも再評価することにつなげていきたいのである。

 

陸軍きってのロシア通「樋口季一郎」

樋口は1888年(明治21年)8月20日、兵庫県淡路島において奥浜久八とまつ夫妻の間に長男として生まれた。11歳の時に両親が離婚し、樋口は母方の実家に引き取られるが、18歳で岐阜県大垣市の樋口家の養子となり、以降樋口姓を名乗っている。

幼いころより非常に成績が優秀であった樋口は、1902年(明治35年)、軍隊のエリート将校早期養成のために創設された大阪陸軍地方幼年学校に入学。

さらにその3年後1905年(明治38年)には東京の陸軍中央幼年学校に入学。

これを1907年(明治40年)に卒業すると、一旦、東京の第1師団歩兵第一連隊に配属される。

軍人として配属された後、今度は陸軍士官学校に進み、これを優秀な成績で卒業。

その後、陸軍大学校を経てエリート軍人としてのキャリアをスタートさせる。

陸軍大学校ではドイツ語を学んだが、第二外国語にはロシア語を選択。というのも、当時の陸軍の仮想敵国はロシアであり、ロシアを研究することは軍人として重要と判断したからである。大日本帝国陸軍きってのロシア通はこうして誕生したのである。

大学卒業後は主に満州、ロシア、ポーランドの駐在武官などを歴任。

ポーランドでは当時世界トップレベルといわれていたポーランドの諜報戦略と暗号解読技術を学び、1935年(昭和10年)8月に満州国ハルビンに赴任。

そして1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発したこの年に関東軍の諜報活動のトップである特務機関長に就任する。

 

カウフマン博士の訪問

樋口がハルビンの特務機関長という非常に重要なポストに就任したのは、日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)、49歳の時であった。

そのころの関東軍司令官は植田謙吉大将

植田謙吉

総参謀長は東條英機中将

東條英機

すでに大日本帝国陸軍きってのロシア通としての立場を確立していた樋口の、諜報戦略の能力を認められての抜擢であった。

満州国に赴任した樋口をまず驚かせたのは、あらゆる階層において利権あさりに汲々とする日本人の姿であり、満州国の実情は独立国とは名ばかりの、まさに日本の植民地そのものだった。

このままでは民衆の不満は募るばかりで、内部崩壊の危険もあると案じた樋口は、着任早々「満洲国は日本の属国ではない。ゆえに満洲国、および、満洲国人民の主権を尊重し、余計な内部干渉を避け、満人の庇護に極力努めるように」と部下に訓示し、「悪徳な日本人は、びしびし摘発しろ」と命じた。

 

そんな樋口の元にユダヤ人医師カウフマン博士が訪ねてきたのは、1937年(昭和12年)12月、ある吹雪の夜のことだった。

アブラハム・カウフマン博士は50歳を超えたばかりの紳士で、総合病院を経営する内科医であると同時に、ハルビンユダヤ人協会の会長でアジア地域におけるユダヤ解放運動のリーダーとしても知られていた。

カウフマン博士の用件は、激化の一途をたどるナチス・ドイツのユダヤ人迫害の非道を全世界に訴えるため、ハルビンにおいて極東ユダヤ人大会を開催したいので、その許可をほしいというものだった。

樋口はハルビンの前はドイツに駐在していたこともあり、ヨーロッパにおいてユダヤ人がおかれている不幸な境遇に深く同情しており、これを快諾。

こうして1938(昭和13)年1月15日、関東軍の認可の下で第1回極東ユダヤ人大会が開催された。

会場となったハルビン商工クラブのホールは、東京・上海・香港から集まってきた約2000人ものユダヤ人で埋め尽くされ、来賓として招待された樋口は大会の締めくくりに力強く演説を行った。

諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何れの場所においても『祖国なる土』を持たぬ。如何に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。

ユダヤ人はその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比し、劣ることなき才能と天分を持っていることは歴史がそれを立証している。然るに文明の花、文化の香り高かるべき20世紀の今日、世界の一隅おいて、キシネフのポグロムが行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむものである。

ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。それを何処へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示しあらかじめそれを準備すべきてある。

当然の処置を講ぜずしての追放は、刃を加えざる虐殺に等しい。私は個人として心からかかる行為を憎む。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ。

演説が終わるとすさまじい歓声が鳴り響き、樋口の前にひざまずき号泣する者や、顔を紅潮させ樋口に握手を求める者など、会場は熱狂の渦に巻き込まれた。

 

大会終了後、ハルビン駐在の各国特派員や新聞記者がいっせいに樋口を包囲し、一人の記者が核心をついた質問をしてきた。

ゼネラルの演説は、日独伊の三国の友好関係にあきらかに水をさすような内容である。そこから波及する結果を承知していながら、あのようなことを口にしたのか。

これに対し、樋口は微笑みながら、さも当たり前のことだと言わんばかりに答えた。

日独関係は、あくまでもコミンテルン(共産主義政党による国際組織)との戦いであって、ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。

祖国のないユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来からの精神である。日本人は昔から、義をもって弱きを助ける気質を持っている。

今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。

しかし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害することを、容認することはできない。

世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考えてやらない限り、この問題は解決しないだろう。

しかし、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、間接的にではあるが激しく批判する内容の祝辞を大日本帝国陸軍の高級軍人である樋口が行ったことは、当然のように内外に大きな波紋をもたらし、特に、関東軍司令部からは「日独関係を悪化させるような論調は許されない」「即刻罷免するべきだ」などの批判が起こった。

 

オトポール事件

樋口がナチス・ドイツに批判的な演説をしたことで軍部の批判にさらされている頃、満州国とソ連の故郷付近にあるシベリア鉄道オトポール駅において重大事件が発生していた。

それはナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人たちが、満州国に助けを求めたが入国を拒否され、マイナス20℃以下という極限的な状況で路頭に迷っているというものだった。

 

そもそも、ユダヤ人たちは一体なぜ極寒の地にやってきたのか?

その歴史的背景を簡単に説明すると、1935年(昭和10年)ナチス・ドイツがいわゆるニュルンベルク法を制定したことに端を発する。

これは両親・祖父母のうち誰か一人でもユダヤ教徒であれば、その当人の信仰が何であろうとすべてユダヤ人とみなすというもので、この法に該当した者は公民権を奪われた上、日常生活においても数々の制限が課された。

さらにポーランド系ユダヤ人青年によるパリのドイツ大使館員狙撃事件が発生し、この事件以降、ナチス・ドイツによるユダヤ迫害政策は一層強まり、ドイツ系ユダヤ人の国外脱出に拍車をかける結果となった。

ドイツを脱出したユダヤ人たちは、ポーランドからロシアを経てユーラシア大陸を横断しながら満州国を目指したが、約2万人ものユダヤ人が一挙に押し寄せたため、ドイツと同盟を結ぶ日本の意向を恐れた満州国は彼らの入国を拒否。

ユダヤ人たちの願いは、満州国を通過した後は、当時世界で唯一ユダヤ人をビザなしで受け入れていた上海に向かい、最終的にはアメリカやイスラエルなどへ逃れること。

しかし、満州国において入国を拒否されたため、後戻りすることもできず、厳寒のオトポールにおいて進退窮まり、立ち往生していたのだった。

関東軍ハルビン特務機関長である樋口季一郎のもとに事件の第一報が入った時にはすでに食料も底を尽き、多くのユダヤ人たちが飢餓と凍死の危機に瀕しているという、まさに一刻の猶予もない状況であった。

 

報せを聞いた樋口は、ハルビンユダヤ人協会会長のカウフマン博士からの要請もあり、すぐにでも救いの手を差し伸べようとするも、ナチス・ドイツとの関係を危惧する軍部はこれに強く反対。

 

そこで樋口はまず満州国外交部ハルビン駐在員の下村信貞と協議をはじめた。

というのも、そもそもこの問題は満州国外交部の問題であり、樋口が満州国外交部に何らかの指示を与えるということは、ある種の内政干渉と言われるかもしれなかったからだ。

しかし、現実的には関東軍は満州国の施政全般に対して指導権を保持しており、「内面指導」という名のもとに介入できる立場にあったのだ。

この「内面指導」が実際に行われることはほとんどなかったものの、関東軍の中にはこの権利を返上することを主張する声があり、樋口も返上には賛成であった。

しかし、この状況において満州国外交部はドイツの顔色を窺うばかりで、主体的にユダヤ人救出のために動く可能性は極めて低く、彼らの命運はまさに風前の灯であった。

 

そんな時、10年ほど前の古い記憶が樋口の頭の中にふと蘇った。

それはポーランド駐在武官としてワルシャワに派遣されていた時のこと。

当時まだ少佐であった樋口は、毎月開催される親睦のダンス・パーティーなどで各国の武官と交流するうちに、一人のソ連の武官と知り合い親交を深める。

そしてこの武官の尽力により、当時外国人の入国を一切認めていなかったソ連への視察旅行に成功。この視察旅行は樋口にとってソ連を知る上で非常に大きな収穫となった。

そんな旅の途中、立ち寄ったグルジアの首都チフリス郊外の部落で、樋口は一人の貧しいユダヤ人の老人と出会う。

その老人は樋口が日本人だと分かると、涙を流しながら訴えてきた。

私たちユダヤ人は、世界中で一番不幸な民族です。

何処にいってもいじめられ、冷たい仕打ちを受けてきました。

暴虐の前に刃向かうことは許されない。

ただ、神に祈るしかないのだ。

だれをも怨んだり、憎んだりしてはならないのだ。

ただ、一生懸命神に祈るのだ。

そうすれば、かならず、メシア(救世主)が助けてくれる。

神はメシアを送って助けて下さる。

メシアは東方から来る。日本は東方の国だ。

日本の天皇こそ、そのメシアなのだと思う。

そしてあなたがた日本人もメシアだ。

われわれユダヤ人が困窮している時に、いつか、どこかできっと助けてくれるに違いない。

今まさに進退窮まり、吹雪の中で瀕死の状態にあるユダヤ人を目の前にした樋口は、この時の老人の言葉を思い出し、自らの失脚の可能性も十分に覚悟し、「人道上の問題」として熟慮を重ねた上で、ついにユダヤ人救出を決意。

 

一旦、心を決めた樋口の行動は早かった。

彼は東條総参謀長の許可も仰がず、独断で大連の満鉄本社の松岡総裁を呼び出し、列車を差し回してもらうよう交渉を始める。

もはや一刻の猶予もないのだ。

 

それから2日後の1938年(昭和13年)3月12日、オトポールからユダヤ人たちを乗せた救援列車がハルビン駅に到着。

ハルビン駅

出迎えたユダヤ人協会の幹部と救護班により、車内から次々と病人が担架に乗せられて運びだされ、ホームはあっという間に難民たちでいっぱいになった。

だれかれとなく抱き合い、安堵して泣き崩れる者もいた。

この状況で、凍死者十数人、病人と凍傷患者二十数名で済んだのは不幸中の幸いであった。

樋口が判断に迷い、救援列車の到着がもう一日遅れたら、もっと悲惨な結果を迎えていたであろうと言われている。

 

この時のことを樋口は後日以下のように手記で述べている。

ドイツ東境から多数のユダヤ人がポーランドに流入した。

そして程度こそ違えやはりユダヤ間題は、ポーランド国家最大の悩みである。

喜んで彼らを受け入れる筈がない。

ポーランドは彼らをロシアヘ押しやった。

ロシアは極東地方にプロビジャンなる小地域を設け、ユダヤ人の入植を可能としていたから、彼らがもしそこで百姓をする気ならロシアに留り得たであろうが、追放されたユダヤ人の大多数は概して都市出身であった。

そのため彼ら約二万人が、例の満州里駅西方のオトポールに詰めかけ入滿を希望したのである。それは、民族移動であり流民である。旧訳聖書に見るエジプトからのユダヤ民族東漸の昭和版であった。

満州国はピタッと門戸を閉鎖した。ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯ろしている。

もし満州国が入国を拒否する場合、彼らの進退は極めて重大と見るべきである。

ポーランドも、ロシアも彼らの通過を許している。

然るに「五族協和」をモットーとする、「万民安居楽業」を呼号する満州国の態度は不可思議千万であった。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは滿州国独自の見解でもあるのか。

私は某日、満州国外交部ハルビン代表部主任某君の来訪を求め、この問題に関して種々協議したのであったが、結局これは人道上の問題であることに意見一致を見たのであった。

その後、外交部の決定としてともかくも満州里駅通過、潮のごとくユダヤ流民がハルビンに流れ込んで来たのであった。

(樋口季一郎「アッツキスカ軍司令官の回想録」より)

(中)につづく→

 

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