2015.08.16 杉原千畝

今だから知っておきたい!杉原千畝とユダヤ人迫害の理由 6つのポイント

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命のビザで6000人のユダヤ人を救った日本のシンドラー 杉原千畝(TBS「世界ふしぎ発見!」で杉原千畝特集放送予定!!)

TBS毎週土曜夜の人気番組「世界ふしぎ発見!」2015年7月4日の放送は杉原千畝特集。

杉原千畝といえば、第二次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人たちに、通称「命のビザ」と呼ばれる日本通過ビザを発給し、6000人ものユダヤ人を救ったことから「日本のシンドラー」と呼ばれている人物である。

彼の功績は日本国内よりも海外で先に評価されており、イスラエルにおいては最も名誉ある称号「諸国民の中の正義の人」を送られた唯一の日本人なのである。

今回は、この平和な現代だからこそ、日本人であるからこそ、知っておきたい杉原千畝とユダヤ人迫害の歴史をお伝えしよう。

【一気読み】日本人なら絶対に知っておくべき杉原千畝とその生涯とは?【まとめ】

 

 

なぜユダヤ人は迫害されるのか?その理由とは?

杉原が領事代理として赴任していたリトアニアでは、およそ21万人いたとされるユダヤ人のうち19万人以上が第二次世界大戦中のナチスによるホロコーストで虐殺された。

 

ユダヤ人は、なぜ差別され、迫害されるのか?その理由は何なのか?

そもそもユダヤ人とは、ユダヤ教の信者あるいはユダヤ人を親に持つ者によって構成される民族集団のことである。

 

その迫害の歴史は、紀元前まで遡るほど古く長い。

 

歴史上、最初に確認されるユダヤ人への迫害は、紀元前13世紀の「出エジプト」である。

詳細は旧約聖書に書かれているが、紀元前17世紀ごろエジプトに移住したユダヤ人たちは、そのままそこで奴隷にされ過酷な労働を課せられていた。そこに現れた預言者モーセの導きにより約60万人の人々がエジプトを脱出することに成功する。

彼らはシナイ半島を40年間も放浪した後、神が約束したカナンの地に向かう途中の聖なるシナイ山の頂上でモーセを介して神ヤハウェと契約(シナイ契約)を結ぶ。

ナイル川とシナイ半島

この時モーセが神から授けられた十戒は、いまでもユダヤ教の教義の中核となっている。

 

モーセの死後、その後継者となったヨシュアに率いられたユダヤ人は、ヨルダン川をわたり、イェリコの町とその地域を征服し、紀元前11世紀頃には、サウル王のもとで悲願のユダヤ人国家建国を成し遂げ、ダビデ王およびソロモン王の治世で、最盛期を迎える。

 

しかし、その繁栄も長くは続かなかった。

 

ソロモン王が亡くなると、指導者を失った部族間の抗争が激化し統一国家は崩壊。

悲願のユダヤ人国家はサマリヤを首都に10部族によるイスラエル王国(北王国)と、エルサレムを首都にする2部族によるユダ王国(南王国)と分離することになる。

以降両国は戦争を繰り返し、それが原因となって国力は衰え、結局、北イスラエル王国は紀元前722年にアッシリア帝国に、ユダ王国は紀元前586年に新バビロニア王国に、それぞれ滅ぼされることとなる。

 

北イスラエル王国を征服したアッシリア帝国のサルゴン2世は指導者層を奴隷としてアッシリアに連行し、10部族はサマリアの地から追放される。彼らは後に「失われた十部族」と呼ばれる。

一方、ユダ王国を征服した新バビロニア王国のネブカドネザル2世は、王族をはじめとしてエルサレム市内の若者や職人たちなど多くの人々をバビロンに連行させた。これがいわゆる「バビロン捕囚」であり、出エジプトにつづく第二のユダヤ人迫害である。

バビロン捕囚

紀元前539年にアケメネス朝ペルシアが新バビロニア王国を滅亡させると、ペルシア王キュロス2世によってユダヤ人たちは解放され、故国に戻る許可を得た。

これによりバビロン捕囚は終焉を迎える。

しかし、実際にエルサレムに帰還したユダヤ人は全体の2~3割と言われており、その多くは自由意志でバビロニアに残留したという。

彼らはすでにバビロニアにおいて生活の拠点を築いており、バビロニアで生まれ育った者にとって、話しに聞くだけで実際には一度も見たこともない「故郷エルサレム」への帰還を約束されても容易には決心が付かなかったと思われる。

 

「出エジプト」と「バビロン捕囚」という例を二つ挙げるだけでも、ユダヤ人が3000年以上前から差別と迫害を受けていたことがわかる。

 

だが、なぜ「ユダヤ人」なのか?

 

ユダヤ人を取り巻く問題は、すべて彼らがシナイ山において神と結んだとされる「契約」から端を発している。

この契約があったからこそ、ユダヤ人は自分たちを神に特別に選ばれた民族と考えており、自分たちだけが特権的に神から選択されたという「選民思想」を一貫して主張し続けた。

このユダヤ人のエリート意識ともいえる「選民思想」に基づく態度や行動が、反ユダヤ勢力からの反感を買い、ユダヤ人への残酷極まりない迫害の一因となってきたのだ。

 

そしてユダヤ人迫害を決定づける歴史的大事件といえばイエス・キリストの処刑だろう。

キリスト磔の絵-2

「イエス・キリストを殺したのはユダヤ人」

これは早くからキリスト教会で信じられ、語り継がれてきたことである。

イエスの死後、キリスト教はヨーロッパで急速に広まり、ユダヤ人をイエス殺しの犯人とする考え方が、広くヨーロッパの人々の思想の根底に刷り込まれていったのだ。

 

中世に入っても、ユダヤ人への迫害はつづいた。

代表的な例が十字軍である。

イスラム教徒の支配下にあった聖地エルサレムを奪還するためのキリスト教「十字軍」による遠征だったが、エルサレムを奪還した十字軍は、イスラム教徒だけでなく、ともに旧約聖書を聖典とするユダヤ人をも虐殺したのである。

これはキリスト教徒によるユダヤ人への憎悪がいかに根深いものかを示している。

 

そして、ナチスによるホロコースト。歴史上最も有名なユダヤ人迫害である。

詳しくはコチラ→ 「日本のシンドラー」杉原千畝物語/ユダヤ人救出の命のビザ(7)~リトアニアにおけるホロコースト~

 

キリスト教の信仰が主流である欧米諸国においては、このような宗教的背景からナチスによるユダヤ人への迫害がひどくなっても、積極的に救いの手を差し伸べようとするものはいなかったのだ。

ヨーロッパ諸国はドイツの勢いに敵わなかったという面もあったが、太平洋を挟んで遠く離れたアメリカにおいても、やはりユダヤ人を助けるということにはならなかった。

有名な話では、「セントルイス号事件」がある。

これは1939年5月13日、ドイツから930名のユダヤ人難民をのせてキューバに向かった客船「セントルイス号」が、ハバナに近づいたところで入港を拒否され、アメリカに助けを求めるも上陸の許可をもらえず、ヨーロッパに送り返された事件である。

その後、難民たちはフランス、オランダ、ベルギー、イギリスの4ヵ国から入国を許可されるが、それから数ヶ月も経たないうちにドイツの侵攻を受け、イギリスに上陸した288名以外ほとんど生き延びたものはいなかったという。

 

なぜユダヤ人はカウナスに殺到したのか?

リトアニアのカウナス日本領事館にユダヤ人が殺到した理由を考えるためには、まず当時のヨーロッパの情勢を知る必要がある。

1939年8月、ソ連とドイツの間で締結された独ソ不可侵条約に付帯する秘密の議定書により、東ヨーロッパにおける独ソの勢力範囲の線引きが行われ、東欧諸国(ポーランド、ルーマニア)、バルト三国、フィンランドはソ連の勢力圏に置かれることが同意された。

ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が開戦すると、ソ連も東側から侵攻。

これによりポーランドは東をソ連、西をドイツに支配されることになる。

その後、ソ連はバルト三国のエストニア、ラトヴィア、リトアニアにも侵攻し、その勢いのままフィンランドに領土の一部を引き渡すよう要求。

フィンランドがこれを拒否すると、ソ連はフィンランドから砲撃を受けたという話をでっちあげ、1939年11月30日に宣戦布告。

これが「冬戦争」といわれる戦争である。

フィンランドは大国相手に善戦するも兵力の差は明らかで、1940年3月13日に国土の一割をソ連に引き渡すことを約束し、戦争は終結する。

フィンランドが失った領土

一方、ヨーロッパの西側では、ポーランドに侵攻していたドイツが1940年4月にはデンマークとノルウェーを、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルグを、6月にはパリを攻め落とし、ついには大国フランスをも降伏させていた。

 

ユダヤ民族の根絶政策を掲げるナチスの脅威から逃れるため、ポーランドにいたユダヤ人たちは「東方のスイス」と呼ばれる中立国のリトアニアに逃げ込んでいたが、ソ連が進駐してきたことでリトアニアにも留まりつづけることができなくなった。

そこでユダヤ人たちは安住の地を求め、ヨーロッパからの脱出を図る。

彼らにとって安住の地とはどこか?

まずはアメリカ、そしてイスラエル(当時は英領パレスチナ)、またはユダヤ人の受け入れに寛容であった上海あたりであろう。

しかし、アメリカに行くためには西ヨーロッパを通過する必要があるが、ドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは問題外だった。また、トルコ政府がビザ発給を拒否したことで、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。

もはや唯一彼らに残された逃避ルートは、シベリア経由で日本に渡り、そこから第三国を目指すというものしかなかった。

そのために必要なものが日本通過ビザであり、ビザの発給を求め大勢のユダヤ人がカウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。

 

「命のビザ」発給の背景

そもそも当時ユダヤ人たちが合法的に国外に脱出するためには、その許可証としてのビザが必要であり、ビザを入手するための必要条件は以下のとおりであった。

1.現滞在国から出国許可を得ること。
2.最終受入国の許可を得ること。
3.通過国の許可を得ること。
4.最終受入国までの間の十分な旅費を所持していること。
5.さらに大前提としてビザを発給するのに問題が無いという身分証明書を提示すること。

つまり、杉原の発給する「命のビザ」を取得するためには最終受入国のビザが必要だったのだ。

しかしソ連による併合に備えて各国の領事館がリトアニアから撤退してしまい、ユダヤ人たちに対して入国ビザを発給する国がないという問題が残された。

この窮状を解決したのが在カウナスのオランダ領事館領事に就任していたヤン・ズヴァルテンディクだった。当時のオランダは、ユダヤ人への偏見が比較的少なかったため、他の欧米諸国が発行していなかったユダヤ人向けビザを発行していた。

オランダ本国はすでにドイツに占領されていたので無理だが、南米ベネズエラの沖合に浮かぶオランダ領キュラソー島なら、税関もないので入国できるという点に目をつけ、この島を最終受入国とするビザを発給したのだった。

実際のキュラソー島は岩だらけの小島であったが、あくまでもユダヤ人の窮状を救うために考えられた方便だったのだ。

この逃亡のための方便のビザ、通称「キュラソー・ビザ」を持ってユダヤ人が日本領事館に殺到したのは、1940年7月18日のことであった。

カナウス領事館前-2

最終受入国の許可を得たことで、ビザ発行の最低限の条件をクリアしたユダヤ人の代表団は、杉原にナチスの恐怖と自分たちの置かれている窮状を必死で訴え、何とかビザを発給してもらえるよう懇願した。

なお、このユダヤ人の代表団の中には後のイスラエル宗教大臣ゾラフ・バルハフティックや在日イスラエル大使館参事官ニシェリも含まれていた。

 

最終受入国の許可を得たといっても、それ以外の問題がまだ残っていたので事はそう簡単には進まなかった。

問題とは「日本の受入れ許可」「その間の通過する国の許可」「渡航費用」など。

超えるべきハードルは決して低くはなかったが、ユダヤ人たちの必死の訴えに心を動かされた杉原は言った。

「あなた方は極めて同情すべき境遇にあります。

私は自分に与えられた権限や守るべき規定の範囲内で、できる限りのことをしたいと思うが、人数があまりに多いので上司の外務大臣の了解を得なければならないので、数日待っていて下さい」

 

残された問題のうち、通過国の許可は杉原自身がソ連領事館に出向き、日本通過ビザでソ連国内通過は可能かを打診し、問題なしとの回答を得る。

費用の問題も神戸のユダヤ人協会が工面するということで解決。

残る問題は日本通過ビザの発給だけだった。

 

しかし、外務省の回答は「NO」。

 

それでも杉原は諦めず、人命にかかわることゆえ特例で対応できないか再度かけ合うも、回答はやはり「NO」。

 

当時の日本政府は日独伊三国同盟の締結を間近に控えており、むやみにドイツを刺激したくないという国内の政治的配慮が働き、表立ってドイツの政策に反対する許可を出す訳にはいかなかったのだ。

再三の要請にも関わらず、外務省は頑なにこれを拒否。

ついに杉原は自らの権限でビザを発給する決心するのだった。

詳しくはコチラ→ ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」~杉原千畝物語(4)~杉原の苦悩

 

杉原の決断

リトアニアは1940年8月3日に正式にソ連に併合されるが、日本領事館には前もってソ連から退去命令が出ており、杉原自身も外務省から「早く退去するように」との指示を受けていた。

外交上の緊急事態では国の指示を遵守するのは当然であり、外交官として杉原が本国からの指示に従ったからといって、それは決して責められるものではなかった。

家族や杉原自身の身の安全を考えれば、指示通り領事館を閉鎖し、国外へ脱出するだけでよかった。

本国の指示に従わなかったとなれば、杉原の外交官としてのキャリアは絶たれ、ユダヤ人を助けたことがドイツへの敵対行為とみなされればゲシュタポに命を狙われる危険もあったのだから。

 

しかし、杉原は家族の理解と後押しもあり、外交官としての自分の立場や外務省の指示よりも、人間としてなすべきことを優先させたのだった。

1940年7月29日の朝、ついにカウナスの日本領事館の扉は門の前に立つすべてのユダヤ人のために開かれた。

カウナス_杉原千畝記念館-3

その日から杉原の一日は早朝から深夜までビザの発行で明け暮れることになる。

領事館前に集まるユダヤ人の数は日を追うごとに膨れ上がり、彼らを一人でも多く助けるため杉原は死にもの狂いでビザを書き続けた。

しかし、ビザには一人一人の素性や渡航先、所持金の額、通過条件の申し送りなどを詳細に書き込まなければならないため、一日に発給できるビザの数には限りがあった。

まさに寝食を忘れ、寝る間も惜しんでビザの発給を続けたが、ソ連からの厳しい退去命令に続き、外務省からも「即刻ベルリンへ行け」という緊急電報が届き、いよいよ命令を無視できなくなった杉原は、仕方なく領事館を閉鎖。

一家で老舗ホテル「メトロポリス」に移り、そこでもビザの代わりの渡航証明書の発給を続ける。

そしてリトアニアを去る日、ベルリン行きの列車を待つ杉原のもとにギリギリまでビザの発給を求めるユダヤ人たちが殺到したため、車中でも出発の直前までビザを書き続けた。

しかし、無情にも出発の時間。

断腸の思いで追いすがるユダヤ人たちに別れを告げる杉原だった。

詳しくはコチラ→ ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」~杉原千畝物語(5)~杉原の決断

 

 奇跡のビザの威力

杉原は時間が許す限り、希望するユダヤ人に対してほぼ無条件にビザを発給した。

明らかな偽造パスポートと分かっていようが、有効期限が切れていようが、所持金などほとんど持たないトランクひとつの着の身着のままの人間であろうが、とにかく目の前のユダヤ人が一人でも多く助かるようすべてビザを発行したのだった。

 

そんな杉原の「命のビザ」をやっとの思いで手に入れたユダヤ人たちだが、無事に日本に辿り着くまでにはまだまだ過酷な運命が待ち受けていた。

シベリア鉄道でウラジオストクを目指したユダヤ人たちは、身動きも取れないほど混みあった列車につめ込まれた上、途中の駅で停車するたびにソ連の秘密警察が乗り込んできては貴金属や時計などを奪っていったので、ウラジオストクに着くまでには大半のユダヤ人は所持金はもちろんのこと金目のものをほとんど持っていないという状況だった。

 

死ぬ思いでウラジオストクに到着したユダヤ人たちだが、ここでも新たな問題に直面する。

日本政府は依然としてユダヤ人の入国を認めておらず、日本行きの連絡船に彼らを乗せないよう指示していたのだ。

このままシベリアの地で断たれるかに思われたユダヤ人たちの命運だったが、幸運なことに当時ウラジオストク領事館には、ハルビン学院(日露協会学校)において杉原の2年後輩であった根井三郎が総領事代理として赴任しており、杉原のビザが訓令違反で発給されたことは承知の上で、一度領事が発行した正式なビザを無効にすることは海外に対する信用を失い、大日本帝国の威信にかかわるとして外務省を説得した。

 

かくして無事に日本へ向かう船に乗り込むことができたユダヤ人たちだが、彼らの困難は日本に到着した後も続くのだった。

次なる問題、それは「ビザの有効期限」だ。

Transit_visa

杉原のビザで許された日本滞在期間は10日間のみ。これを過ぎれば強制送還されてしまう。

命からがらヨーロッパを脱出しここまでたどり着いたのに、このまま送還されれば彼らを待ち受けるのはナチスによるホロコースト。生き残れる可能性は極めて低かった。

途方に暮れるユダヤ人たちが救いを求めたのが、ユダヤ教の研究者であり信者である小辻節三だった。

ユダヤ人たちからの要請を快く引き受けた小辻は、八方手を尽くし、政府・自治体へ働きかけを行った結果、日本滞在の延長許可を得ることができた。

出国までの時間的猶予を与えられたユダヤ人たちは、日本人から温かい飲み物や食べ物をふるまわれるなど手厚いもてなしを受けた後、アメリカ、イスラエル、香港、上海などへと安住の地を求め旅立っていったのだ。

詳しくはコチラ→ 「日本のシンドラー」杉原千畝物語/ユダヤ人救出の命のビザ(9)~杉原が繋いだ命のバトン~

 

Sempo Sugiharaの発見

リトアニアを退去した後の杉原は、外務省からの辞令に従いドイツの首都ベルリンを訪れるが、外務省の命令に逆らったことに対しては予想に反して誰からも何も言われず、また命を狙われるのではないかと心配したゲシュタポについても、ドイツがハンガリー、ルーマニアへ侵攻していこうとしていた矢先であったことも幸いし、特に問題にはならなかった。

ベルリンに着いた杉原は、その足でプラハでの勤務を命じられ、半年後の1941年3月にはドイツ東プロイセン州の在ケーニヒスベルク総領事館に領事代理として赴任した。

さらにその1年半後にはルーマニアの首都ブカレストの公使館に派遣され、この地で終戦を迎える。

ブカレストの公使館で家族と共にソ連軍に身柄を拘束された杉原は、約1年間の収容所生活を送ることになり、一家がようやくの思いで日本に帰国できたのは1947年4月のことだった。

 

帰国した杉原を待っていたのは、あまりに冷たい外務省の仕打ちだった。

表向きは外務省内のリストラを理由とした辞職勧告だったが、リトアニアでの訓令違反の責任を取らされたと考えるのが自然だろう。

こうして「外務省きってのロシア問題のエキスパート」は47歳という若さにして外務省を去ることになったのだ。

外務省-2

 

外務省を辞めた杉原は、身内の不幸に見舞われるなど多くの困難に遭うが、得意の語学力を活かして商社などで職を得る。

それから20数年経ったある日、ソ連との貿易の仕事の合間に一時帰国していた杉原にイスラエル大使館から一本の電話がかかってきて面会を申し込まれた。

この人物こそ、カウナスでユダヤ人代表団の一人として、ビザの発給について杉原と交渉を行ったニシェリだった。

実に28年ぶりの再会である。

日本のイスラエル大使館に参事官として赴任していたニシェリは、八方手を尽くし杉原を探しだしたのだった。

やっと見つけ出した杉原の恩に報いるため、イスラエル政府は1969年に杉原をイスラエルに正式に招待。その時杉原を出迎えたのが宗教大臣のゾラフ・バルハフティックだった。

彼もまたカウナスで杉原とビザの発給交渉を行ったユダヤ人代表団の一人である。

 

生きて再会できたことを喜んだ二人だが、バルハフティックはこのとき初めてビザの発給が杉原の独断であったことを知る。そしてそれが原因で彼の外交官としてのキャリアが絶たれたことも。

 

自分たちの命を救った杉原の勇気ある行動が、日本ではまったく評価されていない事実に驚いたバルハフティックはその恩に報いるため、イスラエルにあるナチスの犠牲者追悼のための国立記念館「ヤド・ヴァシェム」に杉原の名前を飾り、イスラエル最高の勲章である「諸国民の中の正義の人」の称号を贈ってその功績を讃えた。

 

1986年、杉原は多くの人々に惜しまれながら86歳の生涯を閉じた。

 

杉原の生まれ故郷、岐阜県八百津町。

ここにある杉原千畝記念館に展示されている資料の中に、杉原が晩年に残した手記がある。

その一部を抜粋する。

 果たして浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないのか。

それが果たして、国益に叶うことだというのか。

苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。

そして私は、何を恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。

早稲田大学記念碑

 

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