2015.05.31 パラオ

パラオ・ペリリュー島への慰霊の旅、強行日程からわかる今上天皇陛下の強い思いとは?

4
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

パラオペリリューへの慰霊の旅ご出発前の今上天皇陛下のおことば―

 

終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで、この戦いにおいて日本軍は約1万人、米軍は約1700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。

 

(平成27年4月8日、パラオ諸島ご訪問ご出発に当たっての今上天皇陛下のおことば、文藝春秋6月号から)

 

4月8日~9日、今上天皇陛下が第二次世界大戦の激戦地パラオペリリューへ慰霊の旅に訪れました。

 

ご旅行の詳細な行程が明らかになりました。

文藝春秋6月号に掲載された川島裕・前侍従長の随行特別手記です。

 

一部メディアはご旅行前から、海上保安庁(国土交通省外局)の巡視船にお泊りされてまで慰霊に赴かれる、今上天皇陛下の強い思いに注目をしていました。

 

ご旅行は改めて、戦後70年に際し、今上天皇陛下のなみなみならぬ平和への強い思いが日本国民に伝わるものとなりました。

 

 

パラオペリリューで、今上天皇陛下は初めて巡視船にご宿泊

 

 

パラオペリリューへの今上天皇陛下ご慰霊の旅の行程とは―

 

川島・前侍従長の手記に基づき、今上天皇陛下のご旅行の行程を見てみたいと思います。

 

4月8日

11時29分、特別機が羽田を出発します。

 

16時2分、パラオ諸島で一番大きな島・バベルダオブ島にある空港に到着。

空港ターミナルビルでレメンゲサウ・パラオ大統領による歓迎式。

空港から車で旧首都のあったコロール島のパラオ国際サンゴ礁センターへ。

 

バベルダオブ島とコロール島を結ぶ橋は別のブログに書きましたが日本パラオ友好の橋といわれています。

 

19時5分、パラオ国主催のレセプション及び晩餐会にご出席。

 

ここでの今上天皇陛下のご答辞があります―

 

先の戦争においては、貴国を含むこの地域において日米の熾烈な戦闘が行われ、多くの人命が失われました。日本軍は貴国民に、安全な場所への疎開を進める等、貴国民の安全に配慮したと言われておりますが、空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした。ここパラオの地において、私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います。また、私どもは、この機会に、この地域の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に慰霊碑や墓地の管理、清掃、遺骨の収集などに尽力されたことに対して心から謝意を表します。

 

川島・前侍従長は「出席者一同の胸に染み入るようなお言葉であった」と記しています。

 

21時半すぎ、晩餐会場を後にし、同会場で、現地で活躍している邦人とのご懇談。

空港から海上保安庁ヘリに御搭乗になり

23時9分、沖合に停泊する巡視船「あきつしま」に着かれ、船泊。

 

川島・前侍従長が「記念すべき」というように、初めて今上天皇陛下は巡視船にお泊りになられます。

 

巡視船としては世界最大級とされる「あきつしま」は、全長約150メートル、総トン数約6500トンの船です。

 

今上天皇陛下の身の安全と、翌日のパラオペリリューへの移動を考慮し、巡視船での船泊が計画されました。

他スタッフはパラオペリリューへ、1時間以上かけ海水の水しぶきを浴びながらモーターボートで移動しています。

 

4月9日

9時30分、天皇皇后両陛下はヘリに搭乗、パラオペリリューに。

10時42分、西太平洋戦没者の碑にご到着、村木厚生労働事務次官の先導により、慰霊碑に日本から持参された白菊の花束を御供花。

 

11時8分、次の慰霊の場である米陸軍第八十一歩兵師団慰霊碑に。

両陛下はここにも日本からご持参になった花輪を供えられました。

 

11時43分、パラオペリリューの住民と懇談。

15時56分、ヘリでパラオ国際空港に戻られ、帰国の途に。

 

今上天皇陛下、パラオペリリュー慰霊の旅を通じて平和への思いを伝える

 

 

パラオペリリューへのご旅行について川島・前侍従長は

 

昨年の夏前に、戦後70年という節目の年に当たる来年には、是非、慰霊のためにパラオに赴きたいという陛下の強いお気持ちを承り、これは何としても実現せねばということで、御訪問のプランニングが動き出した。

 

というように、今上天皇陛下の強い思いから実現に至った、とされています。

 

その思いとは

 

先の戦争に際して日米間で熾烈な戦闘が行われ、多くの人々の命が失われたので、お心を込めて慰霊をなさりたいというお気持ちが強かったからと拝察するが、同時に我が国の委任統治の下で、多くの日本人があの地域に移り住み、今でも、その子孫がそれぞれの国で活躍しているという事実、つまりあの地域の人々と日本との間の縁を大切になさりたいというお気持ちがとても強かったと思う。

 

戦没者への慰霊、そして両国の深い縁を大切にされたい、というものだとしています。

 

日米の戦史、そして日本 パラオの歴史はブログに詳細を記してありますので参考にしていただきたいと思います。

 

川島前侍従長はさらに

 

南洋庁開設時点の大正11年に地域に在住する日本人はわずか数十名であったが、以後沖縄県民はじめ多くの日本人が南洋に移住し、昭和10年にはその総数5万1861名と、島民の総数5万573名をわずかながら上回ることになった。委任統治領の武装は禁じられていたため、この地域はサトウキビ栽培、製糖、漁業などを基幹産業とする平穏な地域として発展してきた。陛下は、南洋興発(註:南洋の開発に中核的な役割を果たした国策会社)を率いた松江春次が、かつて敗者の立場を経験した会津藩出身であったことから、島民に対する思いやりがあったので、今でもあの地域の人々の対日感情が良好なのではないかと仰せになったことがある。

 

と今上天皇陛下の独自のご認識を示している部分があります。

 

今上天皇陛下の歴史認識の深さを改めて感じることができます。

もちろん会津藩は、徳川政権を最後まで守った藩で、天皇を頂いた倒幕派の朝敵であったからです。

 

川島前侍従長の随行特別手記には、ご出発に当たっての今上天皇陛下のおことばもあります―

 

この度のパラオ共和国訪問が、両国間にこれまで築かれてきた友好協力関係の、更なる発展に寄与することを念願しています。私どもは、この機会に、この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに、パラオ国の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に、慰霊碑や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、大統領閣下始めパラオ国民に、心から謝意を表したいと思っております。

 

パラオ・ペリリューの国民へ謝意を表しています。

 

川島前侍従長は最後に

 

一泊二日、正味24時間ではあったが、重く、そして中身の濃い御旅行であった。陛下は、かねてから我が国において先の戦争を記憶している人々が少なくなっていることを強く案じておられた。また、両陛下は、お二方それぞれがこの南方の激戦時、小学校の四年生、三年生として「南洋」、「パラオ」、「玉砕」等の言葉を耳にしておられ、恐らくは、そうした記憶を持つ最後の世代とご自分方を位置づけられ、この地方の慰霊をご自分方の負うべき一つの役割とお感じになっていたやに拝察している。今回、多くの国民が、お心を込め慰霊をなさる両陛下のお姿に接し、それぞれ感慨を新たにしたことと思う。そして、それは大切なことだったと思う。

 

と結んでいます。

 

80歳を超えられた今上天皇陛下が、戦後70年にこだわり、文字通り身体を張って、改めて多くの国民に戦争の悲惨さを思い起こさせ、そして平和への思いを伝えられた、ご旅行であったのです。

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

タグ一覧

パラオ関連記事

パラオ関連記事をすべて見る