2016.02.15 杉原千畝

ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(11)感動の再会

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日本に帰国した杉原千畝を待ち受ける運命とは?

外交官としての最後の赴任地であるブカレストで終戦を迎え、収容所を転々とした後にやっとの思いで帰国を果たした杉原。

日本帰国後の彼を待っていた外務省の冷遇と、「命のビザ」により救い出したユダヤ人たちとの感動の再会。

 

外務省退職は「命のビザ」発給の報復!?

戦争が終わり、やっとの思いでヨーロッパから帰国した杉原を待っていたのは、外務省内のリストラを理由とした辞職勧告だった。

事の経緯を杉原本人がほとんど語っていないため真偽の程は定かではないが、杉原が人道的立場から発給した「命のビザ」は、正式に本省の許可を得てはいなかったため(第5話参照)、その責任を取らされる形で辞職を迫られたと考えるのが自然だろう。

こうして外務省きってのロシア通といわれた杉原は、47歳にして外務省を去ることとなった。

外務省-2

外務省退官後は、覚悟していたとはいえ一家の生活は困窮し、食事にも事欠く日々が続く。

そんな中、三男を小児がんで亡くすなど身内の不幸にも襲われ、杉原の日本での再出発は苦難に満ちたスタートとなった。

しかし語学が堪能であったことが幸いし、連合国軍の東京PX(進駐軍向けの商店)で日本総支配人としての職を得る。

その後いくつかの職を転々とした後、1960年には川上貿易のモスクワ事務所長として、再びヨーロッパの地に舞い戻ることとなった。

モスクワには単身で赴任し、以降15年もの長期に及ぶ海外駐在員生活を過ごした後、1986年(昭和61年)7月31日、86歳でその生涯を閉じた。

 

なお、日本国政府による公式な杉原の名誉回復が行われたのは、彼の死後14年も過ぎた2000年10月10日になってのことだった。

 これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。

日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。

故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。

(2000年10月10日の河野洋平外務大臣による演説より)

 

余談であるが、「シンドラーのリスト」のオスカー・シンドラーも(第2話参照)、終戦後は次から次へと事業を起こしては失敗し、資金繰りに奔走するなど非常に苦しい生活を強いられていた。

そんな彼の状況を聞き及んだユダヤ人たちが彼をイスラエルに招待し、シンドラーは一年の半分を彼が救ったユダヤ人たちのもとで過ごすようになった。

1974年に66歳でその生涯を閉じた後は、彼自身の希望によりエルサレムのローマ・カトリックの教会墓地で安らかに眠っている。

なお、彼の名が広く一般に知られる契機となったのは、1982年にオーストラリアの作家トーマス・キニーリーが出版したノンフィクション小説がベストセラーとなったこと、そしてこの作品を映画化した「シンドラーのリスト」がハリウッド映画界の巨匠スティーヴン・スピルバーグ監督によって世界的に大ヒットを収めたことによる。

 

多くのユダヤ人を救った二人のシンドラーだが、彼らの功績が正当に評価され、日の目を見るようになるまでに、ともに長い年月がかかったことは何とも奇妙な偶然である。

 

「Sempo Sugihara」の発見と感動の再会

戦後、ユダヤ人たちは戦争中に様々な形で恩義を受けた人々を一人ひとり探し出してはお礼を続けていたが、杉原の発見には実に28年もの月日を要した。

一体なぜこんなにも時間がかかってしまったのか?

実は、杉原は自身の「千畝(チウネ)」という名前は、ユダヤ人にとっては発音が難しかったため、音読みで「Sempo(センポ)」と呼ばせていた。

そのため、ユダヤ人たちは「チウネ・スギハラ」ではなく、「センポ・スギハラ」を探し続けていたのだ。

実際、杉原の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに対して外務省は、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答したという。

しかし、当時の外務省関係者名簿に杉原姓は3名しかいなかったので、名前が異なっても苗字から推察することは容易であったはず。

それにも関わらず、このような紋切り調の回答に終始するあたり、外務省内での杉原の扱いが如何なものであったか想像に難くない。

 

1968年(昭和43年)8月のある日、ソ連との貿易の仕事の間に一時帰国していた杉原の元に、イスラエル大使館から一本の電話がかかってきた。

特に心当たりもなく不思議に思う杉原だったが、兎にも角にも大使館に赴き、一人の参事官と面会する。

その参事官は杉原に会うなり「私のことを覚えていますか?」と聞いてきたが、記憶に無い人物であったため「申し訳ありませんが・・・」と答えると、その参事官はボロボロになった一枚の紙切れを杉原に差し出した。

それこそがまさに杉原が発給し、多くのユダヤ人を救った「命のビザ」であった。

Transit_visa

「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません。

28年間あなたのことを探していました。

やっと、やっと会えました”Sempo Sugihara”。」

彼は涙ながらにそう杉原に告げた。

この参事官こそ、カウナスでユダヤ人代表の一人として、ビザの発給について杉原と交渉を行ったニシェリだった。

実に28年ぶりの再会である。

彼は参事官として日本のイスラエル大使館に赴任すると、”Sempo Sugihara”をなんとしても見つけ出し、あの時のお礼をしなければと八方手を尽くしていたのだった。

杉原の発見に繋がるきっかけとなったのは、杉原自身がユダヤ人たちのその後の消息を気にかけてイスラエル大使館に自らの住所を伝えてあったためであり、これによりニシュリはついに杉原を探し出すことができたのだ。

この年、杉原の四男伸生がイスラエルのヘブライ大学に公費留学生として迎えられた。

これは杉原の恩に報いるため、イスラエル政府が招聘したものであった。

翌1969年(昭和44年)、杉原自身もイスラエルに招待された。

出迎えたのは宗教大臣のゾラフ・バルハフティック。

彼もまたカウナスでビザ発行の交渉を杉原と行い、「命のビザ」によって命を救われたユダヤ人の一人だった。

ゾラフ・バルハフティク

 

長い月日を隔て、生きて再会を果たせた奇跡を喜び合った二人であったが、バルハフティックはこのとき驚くべき事件の真相を知ることになる。

 

彼らの命を救った「命のビザ」と言われる日本通過ビザは、杉原が外務省と交渉して許可されたものだと当然のように思っていたが、実際には日本政府からは反対されていたこと、そして杉原がそれを押し切り独断で発給を続けていたということを。

さらにそのことが原因となり、外交官としてのキャリアは絶たれ、ユダヤの民族の恩人として永遠に語り継いでいかなければならない偉大な功績に対し、顕彰どころか逆に譴責のみが与えられたという事実を。

実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。
杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。
杉原氏の免官は疑問である。
日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。
賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である。
杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。
しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである。
(1998年5月25日のエルサレム郊外でのインタビュー)

“Sempo Sugihara”の発見とそれに引き続く事件の真相の判明はユダヤ人たちに大きな衝撃を与えた。

自分たちの命を救った極東の島国の気骨ある外交官の勇気と英断をまったく評価しない日本国政府に代わり、ユダヤ人たちはその恩に報いるためヤド・ヴァシェム(ナチスの犠牲者追悼のための国立記念館)に杉原の名前を飾り、「諸国民の中の正義の人」の称号を贈ってその功績を讃えた。

「諸国民の中の正義の人」とは、ナチスによるホロコーストから自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を表すイスラエルで最も名誉ある称号であり、杉原はこの賞を授与された唯一の日本人なのである。

また、ゴールデン・プレート(ユダヤ民族で世界に偉大なる貢献をした人物、もしくはユダヤ人が忘れてならない恩恵を与えてくれた人物の名を刻んだプレート)にも、モーゼやメンデルスゾーン、アインシュタインといった錚々たる偉人たちと並んで杉原の名が刻み込まれている。

さらに1985年11月にはイスラエルのエルサレムの丘に杉原の功績を称える顕彰碑が建てられることになり、病床の杉原に代わってイスラエル在住の四男伸生氏が除幕式に出席。

伸生氏は集まっていたユダヤ人たちから握手攻めに遭い、その様子を手紙で知った杉原の目には涙が溢れたという。

 

杉原自身この功績をあまり多く語ることはなかったが、亡くなる一年ほど前にビザ発給の動機をこのように答えたという記録が残っている。

あなたは私の動機を知りたいという。
それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。
目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。
避難民には老人も女もいた。
絶望のあまり、私の靴に口づけする人もいた。
そう、そんな光景をわが目で見た。
そして当時、日本政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。
軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、内務省の役人はただ興奮しているだけだった。
本国の関係者の意見は一致していなかった。彼らとやり合うのは馬鹿げていると思った。
だから、返答を待つのはやめようと決心した。
いずれ誰かが苦情を言ってくるのは分かっていた。しかし、私自身これが正しいことだと考えた。
多くの人の命を救って、何が悪いのか。
もし、その行為を悪というなら、そういう人の心に邪なものが宿っているからだ。
人間性の精神、慈悲の心、隣人愛、そういった動機で私は困難な状況にあえて立ち向かっていった。
そんな動機だったからこそ勇気百倍で前進できた。

さらにいつも淡々とこう語っていたという。

新聞やテレビで騒がれるようなことじゃないよ。
私は、ただ当然の事をしただけだから。

 

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(完)

 

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