2015.05.14 杉原千畝

ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(9)杉原が繋いだ命のバトン

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杉原千畝から引き継がれた「命のリレー」

杉原が発行した「命のビザ」を手に入れたユダヤ人難民たちは、シベリア鉄道でおよそ2週間かけ極東のウラジオストクへ。

自らと家族の危険も顧みず、外交官としてのキャリアをも賭けて救いだしたユダヤ人たちは、どのようにして無事に第三国まで脱出することが出来たのか。

 

「日本のシンドラー」から引き継がれた命のバトン(その1.根井三郎)

リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、ウラジオストクに到着した。

ウラジオストク地図

当時、ウラジオストク総領事代理には、ハルビン学院(日露協会学校)において杉原の2年後輩であった根井三郎が赴任しており、根井は杉原同様に命からがら逃げ出してきたユダヤ人難民の窮状に深く同情し、書類不備を理由に日本入国に難色を示す本省に抗議した気骨の外交官でもあった。

本国の外務省が大挙して押し寄せる条件不備の難民に困惑し、ウラジオストクの総領事館にビザの再審議を厳命した記録が残っている。

「本邦在外官憲カ歐洲避難民ニ與ヘタル通過査證ハ全部貴館又ハ在蘇大使館ニ於テ再檢討ノ上行先國ノ入國手續ノ完全ナル事ノ確認ヲ提出セシメ右完全ナル者ニ檢印ヲ施ス事」

【現代語訳=日本の官憲がヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、あなたのところやソ連の大使館でもう一度調べて、行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗る許可を与えること】

しかし、ユダヤ人たちの窮状を目の当たりにした根井三郎は、1941年(昭和16年)3月30日の本省宛電信において以下のように回電し、官僚の形式主義を逆手にとって、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。

 「避難民ハ一旦當地ニ到着セル上ハ、事實上再ヒ引返スヲ得サル實情アル爲(・・・)帝國領事ノ査證ヲ有スル者ニテ遙々當地ニ辿リ着キ、單に第三國ノ査證カ中南米行トナル居ルトノ理由ニテ、一率檢印ヲ拒否スルハ帝國在外公館査證ノ威信ヨリ見ルモ面白カラス」

【現代語訳=逃げてきた人たちがここにまでやって来たからには、もう引き返すことができないというやむを得ない事情があります。日本の領事が出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどりついたというのに、行先国が中南米になっているというだけの理由で一律に船に乗る許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになるのでまずいと思います】

— 1941年3月30日付の根井三郎による本省への抗議の電信

これら外務省本省とのやり取りは5回にも及び、ユダヤ人たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたったという。

杉原と根井、二人の出身校であるハルビン学院は1920年(大正9年)、元南満洲鉄道株式会社の総裁、後藤新平の肝いりで設立されたロシア語を学ぶための専門学校であり、同校のモットー「自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」というものであった。

一度はシベリアの地で断たれるかに見えたユダヤ人たちの命は、二人のハルビン学院卒業生の勇気ある行為によって救われたのだった。

 

「日本のシンドラー」から引き継がれた命のバトン(その2.大迫辰雄)

ウラジオストク総領事代理であった根井三郎が外務省の命令に反し日本に向かって出航させたユダヤ人たちの命のバトンは、Japan Bureau ニューヨーク支店(現JTB、以下JTB)の社員大迫辰雄に引き継がれることとなる。

当時、JTBはアメリカユダヤ人協会の依頼により、シベリア鉄道で逃れてきたユダヤ人難民たちに日本への連絡船を斡旋していた。

ユダヤ人を輸送したのは、「天草丸」という日露戦争で拿捕された元ロシアの客船で、期間は1940年(昭和15)年の秋から翌年の春までの約10ヵ月であり、この船に乗り込んでいたのがJTB社員の大迫辰雄だった。

ウラジオストクから敦賀までは、冬の日本海を4日間かけて横断しなければならず、波が高く大変な航海だった。

後に、大迫は以下のように述べている。

当時、毎週1回の割で20数回にわたって日本海を往復、添乗斡旋に当った大迫辰雄は、各航海とも海が荒れ、船酔いと寒さと下痢に痛めつけられたうえ、異臭に満ちた船内斡旋のつらかったことを想起し、よく耐えられたものであると述懐している。

「日本交通公社七十年史」より

そんな中、大迫は食事の世話から病人の世話まであらゆる仕事をこなしながら、日本の上陸に備え乗客の名簿を作らなければならなかった。

ユダヤ人は同じ名字であることが多く、しかも耳慣れない発音やコミュニケーションの問題など苦労が多く、名前のチェックには大変な労力が必要だった。

日本に上陸するにはパスポートが必要であったが、持っていない人が身分保障に必要な現金はユダヤ人協会からJTBに送られており、それを配るのも大迫の役目でもあった。

ようやく一息ついたユダヤ人は「敦賀が天国に見えた」と言っていたという。

こうして大迫は、1940年~1941年の厳しい冬の間、荒れ狂う日本海を29回往復し6,000人にも及ぶユダヤ人を運び、杉原から根井へと繋がれた命のバトンをしっかりと引き継いだのだった。

 

「日本のシンドラー」から引き継がれた命のバトン(その3.小辻節三)

敦賀上陸後、ユダヤ人たちは新たな問題に直面することとなる。ビザの有効期限だ。

命のビザ

当初、杉原は外務省に「日本滞在30日」のビザを申請していたが、本省から拒否され、仕方なく10日間の通過ビザで処理せざるを得なかったのである。

ところで、当時の「外国人入国令」の通過ビザの規定には日本滞在期間が14日以内となっていたのに、なぜ杉原は14日ではなく10日で処理したのか。

この規定通りにビザを発給するためには、受け入れ国の入国確認ができ、交通費他必要な経費を所持しているなど所定の条件を満たしていなければならず、杉原のもとを訪れたユダヤ人のほとんどがこの条件を満たしていなかったため、規定通りの日数では申請出来なかったのだ。

10日間の有効期限のビザが意味すること、つまりそれは、日本に上陸したユダヤ人は10日以内に次にどこの国に行くか決めて出国しなければならないというものだった。

しかし、多くのユダヤ人が持っていたビザの行き先であるオランダ領キュラソーはカリブ海に浮かぶ岩だらけの小島で、税関もないので入国できるということでユダヤ人の窮状を救うために考えられた方便であった。

つまり、日本に上陸したものの次なる受け入れ国は無いも同然で、10日間という短期間で出国することなど不可能なことなのだった。

そこで途方に暮れるユダヤ人たちが、ユダヤ協会の働きかけで日本滞在延長への協力を要請したのが、ユダヤ教の研究者であり信者である小辻節三だった。

小辻は彼らからの要請を快く引き受け、何度も一緒に外務省に掛け合い、日本滞在の延長を許可してもらえるよう要請したものの、まったく聞く耳を持ってもらえなかった。

困り果てた末、小辻は時の外務大臣である松岡洋右に直訴することにしたのだ。

実は小辻と松岡の間には、松岡が南満州鉄道の総裁をしていたとき、松岡自ら口説いて小辻を総裁室に所属させユダヤ研究をさせたという経緯があり、二人は旧知の間柄であった。

「私は独・伊と同盟は結んだが、ユダヤ人を殺す約束まではしていない。」との松岡の言葉が残されている通り、松岡はユダヤ人に対して非常に好意的であり、小辻に対して秘策を授けるのだった。

松岡は言った。

ビザ延長を決める権限は神戸の自治体にある。もし君が自治体を動かすことができれば、外務省は見て見ぬふりをすることを約束する。

この言葉を受け小辻は、外国人の滞在許可を発行する警察署の幹部を神戸一の料亭で接待し、打ち解け気心が知れた頃合いを見計らって、初めてユダヤ人難民たちが直面している窮状を説明し、滞在許可の延長を訴えたのだ。

警察幹部は小辻の要請を受け入れ、一回の申請で15日間の延長を許可することにした。

申請は無制限にできるので、回数を重ねれば長期滞在も可能となった。

こうして出国までの時間的猶予を与えられたユダヤ人たちは、日本人から温かい飲み物や食べ物をふるまわれるなど手厚いもてなしを受けた後、アメリカ、イスラエル、香港、上海などへと安住の地を求め旅立った。

 

リトアニアの杉原千畝から始まった命のリレーは、ウラジオストクの根井三郎を経由して、ジャパンツーリストビューロの大迫辰雄へと繋がり、ユダヤ教学者の小辻節三へとバトンが渡されたのだった。

 

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