2015.04.22 パラオ

知って得する!日本とパラオの関係から、日本人のルーツ、日本・パラオの歴史、第二次世界大戦史、3つの事実がわかる

3
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

日本とパラオの関係―。

 

天皇皇后両陛下は、戦後70年にあたり、戦没者慰霊と平和を祈念し、第二次世界大戦の激戦地パラオペリリュー島を訪問されました。

 

パラオ・ペリリューは戦後、日本人が置き忘れてきた過去の記憶の数々を、甦らせてくれる存在です。

 

日本とパラオの関係、知って得する3つの法則とは―

・日本人のルーツは親日国パラオにあった!?

・世界一の親日国パラオとの歴史がわかる

・第二次世界大戦の太平洋戦線がわかる

 

パラオ・ペリリューに視点を置くことで、現代の私たちは、改めて近現代史、ひいては日本とは何か、を考えるきっかけになると思います。

 

戦後の自虐史観の中で私たちは、私たちの過去を、否定し、捨て去るよう教育を受けてきたのではないでしょうか。

 

戦後70年を迎え、私たちは改めて日本の歴史を学び、日本とは何か、日本人とは何者か、を考えなければならない時に来ていると思います。

パラオ・ペリリューは、それを考えるきっかけ・機会を与えてくれているのです。

 

日本人のルーツは親日国パラオにあった!?

Kuniyoshi_Station_38

 

日本とパラオの関係―。

 

浦島太郎伝説はだれでもご存知でしょう。

いまのテレビCMでもなぜか英雄の一人として登場していますね。

・桃太郎

・金太郎

そして

・浦島太郎です。

 

この伝説の舞台は、パラオ共和国のあるミクロネシアだった、という説もあることは知っていますか?

 

昔話「浦島太郎」は、子どもにいじめられていた亀を助けた浦島太郎が、亀の背中に乗って竜宮城へ行き、乙姫たちとすごし、玉手箱を土産に帰る、開けるな、といわれた玉手箱を開けてしまったら白髪の老人になってしまった――。

昭和24年までの国定教科書「尋常小学読本」に掲載されたことで、広まったものだそうです。

 

この話、遡ると「日本書紀」「丹波国風土記」「万葉集」に掲載されています。

 

そこでの主人公の名前は「浦島子」です。漁師らしい人物が海で亀をとらえると、亀が美女に変身、浦島子を誘って不老不死の蓬莱山に行き、結婚生活を送るが、故郷の両親を思い出し帰郷を申し出ると、女が、戻ってきたいと思うなら決して開けてはいけないと言って箱を渡す、浦島子が故郷に戻ったところ、地上では何百年もの時間が経過、驚きのあまり約束を忘れ箱を開けると、肉体が天空に飛んでいってしまった、といった内容です。

 

テレビのある番組は、「浦島太郎」が、親日パラオなどミクロネシアの島々が舞台で、ルーツがそこにあると主張していました。日本の漁師が親日パラオなどミクロネシアの島に漂着し、後に帰還した体験が「浦島太郎」の元になったというのです。

 

いなばのしろうさぎの「和邇(ワニ)」って何?

futta1858m

 

日本とパラオの関係―。

 

日本の昔話には別のものもあります。

「古事記」に掲載された「いなばのしろうさぎ」です。

 

「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)」が「淤岐島(おきのしま)」から「稻羽(いなば)」に渡ろうとして、「和邇(ワニ)」を並べてその背を渡ったが、「和邇」に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを「大穴牟遲神(大国主神)」に助けられる(ウキペディア)、という例の話です。

 

この「和邇(ワニ)」が何なのかについて解釈が分かれているのです。

代表的なものはサメ説とワニ説です。

 

因幡国(現・鳥取県東部)を含む山陰地方の方言では、サメをワニと呼んでいる、といいます。地域で伝わる「わに料理」はサメ・エイなどの魚を煮た料理です。日本近海に生息するサメを料理したものです。

 

私もサメの酢味噌和えを食べたことがありますが、ちょっとアンモニア臭がして、食べにくかった思い出があります。

 

一方、平安時代から爬虫類のワニが存在することを日本人は知っていました。平安時代の辞書「和名類聚抄(和名抄)」に記されているそうです。江戸時代の学者・本居宣長は「古事記伝」で、いなばのしろうさぎ・ワニ説を採用しています。

 

学説は分かれますが、日本にワニは生息していません。

ワニ説は戦後、日本の起源の一つが東南アジアにある、とする説と相まって、さらに発展しました。

 

親日国パラオ、南方に日本人のルーツ!?

islands-144474_640

 

日本とパラオの関係―。

 

さて、いきなり大きな話になるように思われるかもしれませんが、もうすこし我慢して聞いてください。

 

日本人のルーツに対する学説は、これも多岐に分かれています。

良く言われてきた考え方は―

 

人類学的分類:モンゴロイドの一つ。旧石器時代または縄文時代以来、現在の北海道から沖縄諸島までの地域に住んだ集団を祖先に持つ。シベリア、樺太などを経由する北方ルート、朝鮮半島を経由するルート、南西諸島などを経由する南方ルートなど複数の渡来経路が考えられる(ウィキペディアから)。

 

要するに、①北方から②大陸から朝鮮半島を経て③南方から―の3ルートを経てきた人々が交わり日本人になった、というものです。

日本のルーツの1つが南方だった、それは親日国パラオ共和国だったのかも―。

 

「浦島太郎」、「いなばのしろうさぎ」は、海に囲まれた日本に住む私たちの祖先が語り継いできた事柄を、国をまとめるために必要な「物語」・記紀を作成するときに加え、生かされたモノである、ということは十分想像しうることです。民族の記憶が、「浦島太郎」であり、「いなばのしろうさぎ」となって、現代の私たちにも伝承されている、と考えられます。

 

陛下のパラオ・ペリリューへの平和祈念・慰霊の旅に対し、私たちはだれもが頭を垂れ、尊崇の念を禁じ得ません。

 

同時にそこに私たちが日本人のDNAを思い描くことは・・・。

 

世界一の親日の国パラオとの歴史がわかる

パラオ国旗

 

日本とパラオの関係―。

 

なぜ親日国パラオが世界一なのか、その理由は―。

 

第一次世界大戦・パリ講和会議(1919年)で、連合国側だった日本は、ドイツの植民地だった親日パラオを委任統治領とします。

日本はそれから31年間、植民地として統治します。

 

産業振興はもとより、ドイツ統治下では、ほとんど行われていなかったとされる学校・病院、道路などのインフラ整備を推進、1920年代には、首都コロール(当時)を近代的な街並みに変貌させた、といわれています。

現地人に対する日本語による学校教育も行われました。

 

しかし第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まるとコロールは米国・連合軍にとって重要拠点と位置付けられ、攻撃の対象となりました。

1944年、要衝の地・パラオペリリュー島での戦いは、苛烈を極め、1万人の日本軍がほぼ全滅をしてしまいました。

 

終戦を経て、米国は1947年から親日パラオを信託統治。

47年後の1994年10月、親日パラオは独立を果たします。

 

親日国パラオ初代大統領のクニオ・ナカムラ氏は父親が三重県伊勢市出身だそうです。

 

31年間の日本統治、太平洋戦争、アメリカ統治を経て、独立した親日パラオは今もなお世界一の親日の国とされています。

 

パラオ・ペリリューでの戦いには逸話が残っています。

日本軍は現地人をいっさい巻き込まなかった、というのです。

戦いが終わり帰島した彼らは、日本軍の遺体を葬りました。日本人がいつ来ても良いように墓地の清掃などに心掛け、今も墓守を続けていてくれているのです。

 

両国の友情の歴史を私たちは忘れてはならないのです。

 

パラオ・ペリリューの戦いから、第二次世界大戦の太平洋戦線がわかる

パラオ飛行場

 

日本とパラオの関係―。

 

第二次世界大戦とはなんだったのか?私たちはいつまでも目を背けていてはならないと思います―。

 

第二次世界大戦、パラオペリリューで日米軍の死闘が繰り広げられました。日本軍は1万人。対する米軍は4万7000人以上、加えて機関銃、火炎放射器、大砲、などがあり戦力差は段違い。

日本軍は洞窟に穴を掘りゲリラ戦に持ち込みました。

3日もあれば陥落できるとアメリカは思いましたが、戦いは2カ月半も続けられました。

しかし抵抗むなしく日本軍は最後、玉砕してしまいます。

 

パラオペリリューには1200mの滑走路2本の飛行場があり、日本軍にとり重要な軍事拠点でした。

 

日本は、米軍がパラオ・ペリリュー経由でフィリピンへ攻撃すると考え、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化する構想を持っていた、といわれています。

三角地帯の内側にパラオ・ペリリューがあり、グアムやサイパン(マリアナ)の後方支援基地としても、戦略的価値があったのです。

 

1943年(昭和18年)末から1944年(昭和19年)にかけ、南方の戦線はマッカーサーを指揮官としてニューギニア、ガダルカナル、そしてフィリピンを目指すアメリカ陸軍の攻撃が続き、さらに中部太平洋を渡ってくる米海軍と海兵隊の大機動部隊による攻撃が始まっていました。

日本軍は、島づたいに北上するマッカーサー軍と、太平洋を渡ってくるニミッツ(太平洋艦隊司令長官)軍との両面作戦に遭ったのです。

 

両方とも目的地はフィリピンです。フィリピンを落とせば日本本土が視野に入るからです。

1944年夏に襲ったのがサイパン島でした。6月15日米軍はサイパン島に上陸、日本連合艦隊がマリアナ沖海戦に挑みますが、6月19日、惨憺たる敗北をしてしまいます。

7月、サイパン島日本軍は玉砕、7月18日、東条内閣は総辞職します。

 

米軍はつぎにフィリピンを狙います。

日本軍はフィリピン諸島で米軍を迎え撃つ決戦場とします。

1944年10月末フィリピン東方海域で凄惨な戦いが展開されました。レイテ沖海戦です。日本連合艦隊はここで死闘の限りを尽くしますが、ほぼ全滅してしまったのです。

 

悲劇のパラオ・ペリリューの戦い

resize

同時期、パラオ・ペリリューでは、当初上陸した米海兵隊が思いもかけず日本軍の抵抗に遭い、米陸軍への交代が行われました。

その時、アメリカはパラオ・ペリリューを超えてフィリピン攻略を始め、日米の主要な戦場はフィリピンに移っていたのです。

パラオ・ペリリューの戦略的価値は既になくなっていたのです。

 

戦略的意味がなくなっていたにもかかわらず、「玉砕」が行われてしまいました。

悲劇の戦いといわれるゆえんです。

 

パラオ・ペリリューでの、日本軍の戦死者は1万695人、捕虜202人、生き残った者34人、一方のアメリカ軍の戦死者は1794人、戦傷者8010人でした(ウィキペディアから)。

 

忘れ去られたこの悲劇の戦いの意味を、私たちは今あらためて考えなければならないのです。

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

タグ一覧

パラオ関連記事

パラオ関連記事をすべて見る