2015.04.16 パラオ

ハリウッドが尊敬する世界の三船敏郎は、「パラオの戦争・ペリリュー島の悲劇」に関係、迫力の演技の原点がそこにあった!?

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パラオ・ペリリュー島で日米軍による悲劇の戦いが行われました。
そのころ、同地を飛び越えたフィリピン・レイテ沖海戦で、日本軍は壊滅的な敗北をしてしまいます。

悲劇が悲劇を呼ぶ連鎖―。
追い詰められた日本軍に特攻隊作戦が浮上します。

作家・半藤一利氏は「昭和史」の中で

東京の上空にサイパン島から発進した爆撃機B29がはじめて姿を見せたのが、昭和19年11月1日でした。そのほぼ一週間前、フィリピンの東方海域で凄絶な戦いが展開されました。これをレイテ沖海戦といいます。(中略)マッカーサー軍を焦点として、死闘の限りを尽くした戦いでありました。連合艦隊はこの時、『全軍突撃セヨ』の命の下に果敢な突撃を行い、ほぼ全滅します。同時に神風特攻隊の体当たり攻撃も正式の作戦となりました

と記しています。

パラオ・ペリリュー島での悲劇の戦い、南方戦線での惨敗が、特攻隊を登場させることになります。
特攻隊とは、生還の見込みのない、戦死を前提とする決死の攻撃を行うもので、最近では百田尚樹著「永遠の0」、その映画化などで、改めて私たちは知ることになりました。

特攻隊基地で終戦を迎えたある映画俳優が、戦後、打ちひしがれ、荒廃した日本人の心を甦らせ、力を与えることになります。
世界のミフネ、三船敏郎です。

 

世界のミフネ主演「太平洋の地獄」、パラオ・ペリリュー島の戦争を胸に!?

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パラオ・ペリリュー島、日米軍が死闘を繰り広げた島。この親日国パラオを舞台とした映画に、三船敏郎が主演をしています。

映画マニアの中でも知る人ぞ知る「太平洋の地獄」という作品。1968年のアメリカ映画です。
「脱出(1972)」、「未来惑星ザルドス(1974)」など男臭い作風で知られる名匠、ジョン・ブアマンが監督。

主演が、世界の三船敏郎と、戦争映画などで良く知られアカデミー主演男優賞も獲得しているリー・マーヴィンの、たった2人だけという異色の映画です。

物語は、第二次世界大戦、日本国海軍軍人(三船敏郎)が、親日国パラオ諸島のある島でひとり生き延びています。
米国海軍の軍人(リー・マーヴィン)が漂着したことから、敵対、事あるごとに争います。

閉ざされた島の極限状態の中におかれた2人は、徐々に協力をし始め、いかだをつくり、島を脱出します。
日本軍の軍事施設が残る、人影のない、別の島にたどりつきます。
酒を汲み交わし、心を開き始める2人でしたが、なぜか最後2人とも爆死をして終わるというストーリーです。

リー・マーヴィンは、ニューヨーク出身のハリウッドスター。193cmの長身と強面の風貌で、戦争映画などに出演、西部劇「キャット・バルー(1965年)」で、アカデミー主演男優賞を受賞しています。

実人生として第二次世界大戦では、海兵隊に入隊、第4海兵師団に所属、サイパンの戦いで負傷し、除隊をしたという戦争経験を持っています。

対するは世界のミフネです。
たった2人による一種の戦争映画なのですが、マーヴィンと三船が、がっぷり四つに組んだ演技をしています。名優同士によるバトルが全編を貫き、この不思議な映画の価値を高めています。

舞台となるパラオ・ペリリュー島など親日国パラオの島々・海の美しい風景が鮮やかに描かれているだけに、戦争や人の争いの空しさが引き立たせられるものとなっています。

悲劇の日米戦、パラオ・ペリリュー島の戦争への複雑な感情・思いが、監督、そして2人の名優の心の中に明滅していたことは、察するに余りあるものと思われます。

 

パラオ・ペリリュー島の悲劇と「特攻隊上がり」は相似形!?

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パラオ・ペリリュー島の悲劇―。

さて世界のミフネです。
監督・黒澤明とともに、敗戦で打ちのめされた日本人に、映画という文化の力で勇気を与えた、まさに立役者です。

出演作はあまりに有名です。

ヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞した「羅生門」、ヴェネチア映画祭主演男優賞を受賞した「用心棒」、2度目のヴェネチア映画祭主演男優賞を受賞した「赤ひげ」など、傑作の数々は、ハリウッドはじめ世界の映画人・人々に影響を与え続けました。

三船敏郎が特攻隊上がりだった―。
今や、それを知る日本人は、あまりいないのではないでしょうか。
ご息女がワイドショーをにぎわせていますが・・・。

1920年(大正9年)、中国山東省青島に貿易商・写真館の子として生まれます。
三船敏郎は本名だそうです。

第二次世界大戦が起こった1939年(昭和14年)、関東軍の航空隊に入隊します。
戦争末期の1945年(昭和20年)、熊本県にあった特攻隊基地に配属され、そこで終戦を迎えています。

写真班として航空写真をもとに要地の地図をつくり、同時に少年兵の教育係も任されます。出撃前の隊員の遺影を撮る仕事にも従事したようです。

三船は、次々と南の海で散華する、自分が育てた後輩たちを、見送ることとなったのです。
敗戦後、この戦争体験を「悪夢のような6年間だった」と述懐した、といわれています。

 

パラオの戦争の悲劇などに対する複雑な思いが「七人の侍」「用心棒」の演技に

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パラオ・ペリリュー島の悲劇―。

復員した三船は、東宝のニューフェース募集に応募し合格します。
1948年(昭和23年)、黒澤明監督「醉いどれ天使」に、破滅的な生き方をするヤクザ役で登場。この作品により三船はスターとなります。

黒澤監督作品の主役に抜擢され続けるのです。
作品を振り返ってみましょう。

1949年(昭和24年)、「静かなる決闘」、「野良犬」に主演。29歳。
黒澤明は三船を「特攻隊上がりの、肩幅がひろくて、いなせで、しなやかな野獣のような男」と評したと、映画評論家の川本三郎氏が記しています。

1950年(昭和25年)、「醜聞(スキャンダル)」、「羅生門」に主演。30歳。
「羅生門」は1951年に作品がヴェネチア映画祭で金獅子賞を取り、「世界のミフネ」の起点となります。

1951年(昭和26年)、「白痴」に主演。31歳。
1954年(昭和29年)、「七人の侍」のはみ出し者・菊千代として出演。34歳。
1955年(昭和30年)、「生きものの記録」老人役で主演。35歳。
1957年(昭和32年)、「蜘蛛巣城」、「どん底」に主演。37歳。
1958年(昭和33年)、「隠し砦の三悪人」に主演。38歳。
1960年(昭和35年)、「悪い奴ほどよく眠る」に主演。40歳。

1961年(昭和36年)、「用心棒」に主演。ヴェネチア映画祭主演男優賞を受賞します。41歳。

1962年(昭和37年)、「用心棒」の続編的作品「椿三十郎」に主演。42歳。
1963年(昭和38年)、「天国と地獄」に主演。43歳。
1965年(昭和40年)、「赤ひげ」に主演。2度目のヴェネチア映画祭主演男優賞を受賞。45歳。

この作品を最後に三船は黒澤監督映画を卒業します。

しかし「世界のミフネ」の名声は世界に轟いており、世界中の名匠からのオファーが舞い込むことになったのです。

 

パラオ・ペリリュー島の悲劇、敗戦、打ちひしがれた日本人に希望を与えた!

パラオ・ペリリュー島の悲劇―。

黒澤明は撮影現場において「クロサワ天皇」と揶揄されるほど、妥協を許さない監督として有名でしたが、三船に関してだけは、三船の演じたいように演じさせていた、とも言われています。

「三船無くして黒澤無し」と言われるほど黒澤作品には欠かせない存在であり、「醉いどれ天使」から「赤ひげ」までの16年間で、ほぼすべての作品の主役に抜擢され、黒澤映画の顔でした。

「世界のクロサワ」・黒澤監督によるストーリーの圧倒的な構成力、画面から飛び出してしまうのでは思わせるほどのエネルギーあふれる「世界のミフネ」の演技―。
日本人ばかりではなく、世界中の人々の心をつかみ続けました。

敗戦により打ちひしがれた日本人に希望を与え続けたのです。

存在感ある演技を重ねる三船の心の原風景は、特攻隊だったのではないでしょうか。
戦争に対する複雑な思い、心の底によどむマグマのような思いが、「羅生門」の多襄丸、「七人の侍」の菊千代、「用心棒」「椿三十郎」の三十郎となって表現されたでは・・・・。

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