2015.04.12 パラオ

戦史入門、パラオの戦争とはなんだったの?

2
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

最強の米軍に一矢報いたパラオの戦争!?

パラオの戦争―。

第二次世界大戦、パラオ・ペリリューで日米軍の死闘が繰り広げられました。日本軍は1万人。対する米軍は4万7000人以上、加えて機関銃、火炎放射器、大砲、などがあり戦力差は段違い。

日本軍は洞窟に穴を掘りゲリラ戦に持ち込みました。3日もあれば陥落できるとアメリカは思いましたが、戦いは2カ月半も続けられました。しかし抵抗むなしく最後は日本軍は玉砕してしまいます。

日本人の多くが忘れているパラオ・ペリリューの戦いとは、国を守るべく日本軍がまさに命がけで最強と言われた米海兵隊に立ち向かい、一矢報いた戦いでありました。
アメリカにとっては史上最悪の犠牲をはらった戦いであったのです。

しかしあまりの過酷さゆえに戦後長く語られることがなかったと言われています。

 

パラオの戦争、ゲリラ戦で「3日の戦いを2カ月半に」

パラオの戦争―。

1944年(昭和19年)9月15日からパラオ・ペリリューで日米軍の戦闘の火ぶたが切られます。
米海兵隊は島南西部の海岸一帯へ艦砲射撃や艦載機による爆撃を行い、1万2000人の海兵隊員を上陸させます。

米海兵隊上陸部隊に対し、日本軍は海岸拠点から一斉に砲射撃を開始、海岸での戦闘は凄惨を極めました。
上陸初日にアメリカ軍は、戦死210人、戦傷901人もの犠牲者を出してしまった、とされています。

パラオ・ペリリューの戦いで日本は玉砕といいましたが、わずか34人の生存者がいました。

その中の一人、永井敬司氏(93歳、元第14師団歩兵第2連隊)はその時の惨状を

海岸はまさに阿鼻叫喚の地獄だった。胴体、首、手首の千切れた敵味方の死体が累々とし、紺碧の海岸はおびただしい流血でオレンジ色に変わっていた。かくしてわが南西区隊の奮戦で米海兵隊1000余名を討ち取り、第一波攻撃を撃退する戦果を挙げた

と記しています(「元軍曹が語る二年半のゲリラ戦」・ボイスから)。

日本軍はゲリラ戦法による徹底的な抵抗を行い、上陸したアメリカ軍に大きな損害を与えました。米軍は上陸時の激戦から島の中央部の高地への一進一退の攻防戦で、苦戦を強いられ続け、「3日で戦いは終わる」と公言していた第1海兵師団長のリュパータス海兵少将率いる第1海兵師団は惨憺たる戦況に陥りました。

日米の戦いは1ヶ月余も継続されていました。

 

パラオの戦争、マッカーサー米陸軍が参戦

パラオの戦争―。

マッカーサー連合軍総司令官が率いる米陸軍部隊が登場します。パラオ・ペリリューから10㎞南西に浮かぶアンガウル島を制覇したばかりのアメリカ陸軍第81歩兵師団が立ちはだかることになります。

米陸軍への交代が行われた頃、アメリカはパラオ・ペリリューを超えて既にフィリピン攻略を始め、日米の主要な戦場はフィリピンに移っていました。パラオ・ペリリューの戦略的価値はなくなっていたのです。

海兵隊と交代したアメリカ陸軍第81歩兵師団は圧倒的な物量を擁し、攻略を始めました。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ始めます。

火炎放射器と手榴弾による攻撃に加え、ブルドーザーを使い入口を塞ぎ、日本軍の洞窟陣地は次々と陥落、更に食料や水もなくなり、極めて苦しい戦いとなっていった、といいます。

日本軍の兵力弾薬はほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐(守備隊長)は拳銃で自決、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られることになったのです。
11月24日、日本軍の組織的抵抗は終わり(永井氏記から)、ついにアメリカ軍はパラオ・ペリリューの占領を果たしました。

上陸開始から2ヵ月半もの時がたっていました。

日本軍の戦死者は1万695人、捕虜202人、生き残った者34人、一方のアメリカ軍の戦死者は1794人、戦傷者8010人でした(ウィキペディアから)。

 

瓦解を始めていた日本軍のパラオ・ペリリュー戦略

パラオの戦争―。

パラオ・ペリリューには1200mの滑走路2本の飛行場があり、日本軍にとり重要な軍事拠点でした。

第一次世界大戦後、親日国パラオは国際連盟により日本の委任統治領となります。

国際連盟脱退後、日本は軍事拠点として整備を進めました。

日本は、米軍が親日パラオ経由でフィリピンへ攻撃すると考え、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化する構想を持っていた、といわれています。
三角地帯の内側にパラオ・ペリリューがあり、グアムやサイパン(マリアナ)の後方支援基地としても、戦略的価値があったのです。

日本陸軍は、関東軍最強と呼ばれていた第14師団を1944年4月、親日国パラオへ派遣、パラオ・ペリリューの守備に当たらせました。
500以上ともいわれる洞窟を要塞化、アメリカ軍の上陸に備えました。

前出の永井氏は

中川守備隊長の戦術は、従来にないいくつかの特徴があった。その一つが複郭戦法である。戦法の要となる複郭陣地とは、陣地間を複雑な迷路や枝状の通路で繋ぐことで、手榴弾や火炎放射器による被害を遮り、神出鬼没のゲリラ戦に備えられる

(前出同)と簡潔に説明しています。

ところが1944年6月のマリアナ沖海戦で日本軍は大敗、三角地帯で米軍に反撃を加えるという作戦は瓦解を始めていたのです。

 

南方戦線におけるパラオの戦争とは?

パラオの戦争―。

当時の南方戦線の状況を振り返ります。

1943年(昭和18年)末から1944年(昭和19年)にかけ、南方の戦線はマッカーサーを指揮官としてニューギニア、ガダルカナル、そしてフィリピンを目指すアメリカ陸軍の攻撃が続き、さらに中部太平洋を渡ってくる米海軍と海兵隊の大機動部隊による攻撃が始まっていました。

日本軍は、島づたいに北上するマッカーサー軍と、太平洋を渡ってくるニミッツ(太平洋艦隊司令長官)軍との両面作戦に遭ったのです。
両方とも目的地はフィリピンです。フィリピンを落とせば日本本土が視野に入るからです。

1944年夏に襲ったのがサイパン島でした。6月15日米軍はサイパン島に上陸、日本連合艦隊がマリアナ沖海戦に挑みますが、6月19日、惨憺たる敗北をしてしまいます。
7月、サイパン島日本軍は玉砕、7月18日、東条内閣は総辞職します。

米軍はつぎにフィリピンを狙います。

日本軍はフィリピン諸島で米軍を迎え撃つ決戦場とします。
1944年10月末フィリピン東方海域で凄惨な戦いが展開されました。レイテ沖海戦です。日本連合艦隊はここで死闘の限りを尽くしますが、ほぼ全滅してしまったのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

タグ一覧

パラオ関連記事

パラオ関連記事をすべて見る