2016.05.17 毛沢東

人類史上初の社会主義国家を誕生させたロシア革命とは?その意義と中国への影響は?

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絶望の果てに・・・「マルクス主義」は救いなのか?

少数民族である満州族により建国された「清」を打ち破り、秦の始皇帝より約2000年以上続いていた皇帝による専制政治体制を終わらせた「辛亥革命」。

人々は民主的な共和制国家「中華民国」のもと、新たな時代が訪れると期待に胸膨らませた。

しかし、彼らの希望は相次ぐ軍閥の割拠による政治的混乱と、欧米列強による植民地支配により無残に打ち砕かれ、数々の苦労を重ねやっと革命に成功したと思っていた人々は「中華民国」に大いに落胆した。

そのような絶望的な雰囲気が国中に蔓延する中でも、北京大学の教授や学生らを中心とした若い知識人たちは希望を失わず、旧時代の封建制度を下支えする儒教からの解放を目指し、思想面と表現面の双方から改革を断行。(→「新文化運動」前ページ参照

この文化革命を通して古い中国の思想や文化が根本から批判される一方、政治と社会の新しいモデルを求めてヨーロッパの近代思想が国民の中に急速に拡大していった。

 

そのうちの一つが「マルクス主義」を中心とする社会主義思想である。

 

欧米列強が掲げる帝国主義の前に国土を蹂躙され、「命より大切」な面子を完膚なきまでに潰された中国人たちにとって、資本主義社会を批判し、万人に幸せをもたらす真に豊かで平等な社会の実現を目指すという「マルクス主義」は、強烈な救済思想として衝撃を持って受け止められた。

やがてこの新しい思想が中国共産党結成へとつながっていくことになるが、そもそも人類史上初めてとなる社会主義国家を誕生させたロシア革命とは、一体どのようなものだったのか?

 

皇帝崇拝(ツァーリズム)は幻想か!?「血の日曜日」事件から始まった第一次ロシア革命とは?

「ロシア革命」は大きく分けて3つの革命からなり、いわゆる「血の日曜日事件」を契機に始まった第一次革命と、帝政ロシア最後の王朝であるロマノフ朝を崩壊させた3月革命、そして史上初の社会主義国家を誕生させた11月革命とに分けられる。

「血の日曜日事件」とは、1905年1月22日、首都ペテルブルクにおいて、ロシア正教会の司祭であったガポン神父に率いられた労働者たちによる平和的なデモ行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件である。

ガポン神父

ガポン神父

当時のロシアは、日露戦争において極東ロシア海軍最大の基地であり、難攻不落と思われていた旅順要塞を攻略されるなど、日本軍を相手に完全に劣勢の戦いを強いられており、国内の経済状態も最悪で人々は貧困にあえいでいた。

そんな日々の生活にも困窮する人々に残された最後の望みの綱が皇帝への請願だった。

「日露戦争の中止」「労働者の待遇改善」「憲法改正と基本的人権の付与」など、彼らの切実な要望を皇帝に直訴すれば、必ず聞き届けてもらえると信じ皇宮を目指して行進したのだ。

しかし、武器を持たない一般市民を武力弾圧した上に死傷者まで出したことで、皇帝への信頼は完全に打ち砕かれ、「皇帝崇拝(ツァーリズム)」は一気に失望へと変わった。

「血の日曜日」事件(軍隊による襲撃を描いた絵画)

「血の日曜日」事件(軍隊による襲撃を描いた絵画)

この事件の反響は瞬く間にロシア全土に波及し、第一次ロシア革命が勃発。

各地で労働者たちによるストライキや農民による蜂起が起こり、政府当局は苦境に立たされた。

 

一方で、1月の旅順要塞陥落に続き、3月には陸戦最大の決戦である奉天会戦でも大敗。

さらに5月には日本海海戦において当時世界最強といわれていたバルチック艦隊が、海戦史上他に類を見ないほど一方的に壊滅させられるなど、まさに連戦連敗続きで戦況は悪化の一途をたどっていた。

事ここに至り、ついに戦争の継続を断念したロシア帝国政府は、1905年9月5日にアメリカのルーズベルト大統領の仲介で日本とポーツマス条約を結び、ここに日露戦争が終結した。

しかしその後もロシア国内の革命的な動きは続き、10月にモスクワで鉄道員のストライキをきっかけに、全国でゼネストに突入すると国内の様々なインフラが停止。

これに対し、皇帝ニコライ2世は「十月宣言」を発布し、立法権を持つ国会(ドゥーマ)の開設や基本的人権の付与を約束。

人々の要望に応える形でロシアの革命は一旦終息したかに思えた・・・

 

しかし、ふたたび国民の不満が爆発する出来事が起きる。

第一次世界大戦である。

 

ロマノフ王朝を崩壊させた3月革命とは?

1914年7月に第一次世界大戦が始まると、ロシアはドイツとの初戦であるタンネンベルクの戦いで早々と壊滅的な敗戦を喫し、これにより帝国政府の威信は完全に失墜。

その後、戦争は長期化し、各国が国力のすべてを戦争遂行に集中させる総力戦へと突入していく中、日露戦争による国民生活の悪化によって第一次革命が起きたばかりのロシアにはこの消耗戦に耐えるだけの体力はなく、ロシア軍はさらなる敗戦を重ね、前線の兵士の士気は著しく低下していった。

さらに、外国資本の引き上げによる国内産業の停滞、国内輸送が麻痺したことによる物価の高騰、多くの農民が兵士として動員されたことによる農業生産力の低下に伴う深刻な食糧不足など、戦争はロシア経済に大打撃を与えた。

 

このように国民が日々の生活にも困窮している状況にあっても、なお戦争続行を主張する帝国政府に対し、ふたたび国民の不満が爆発。

1917年3月8日、首都ペトログラード(※)で「国際婦人デー」に合わせて女性労働者がストライキに入り、「パンをよこせ」とデモを行った。

(※第一次世界大戦を境に、首都の名称はドイツ語風のペテルブルクからロシア語風のペトログラードへと改称された)

3月革命デモ

3月革命デモ

始めのうちは穏健な集会であったが、その規模は瞬く間に拡大し、市内の労働者の大半が参加するほどの大規模なものに発展。

数日のうちに全市がゼネスト状態に突入し、要求も「戦争反対」や「専制打倒」といった政治的スローガンへと変化していった。

これに対し、ニコライ2世は軍にデモ隊の鎮圧を命じ、いたるところで実弾の発砲が行われ多数の死傷者を出すなどしたが、デモ隊はひるむことなく抗議を続け、ついには一部の兵士が造反し武装蜂起が始まった。

時間の経過とともに労働者側に寝返る兵士の数は増え続け、最終的にはほとんどすべての兵士が革命の側に加わり、これらの動きは他の都市にも波及。

各地に労働者・兵士の代表機関「ソヴィエト」が結成され、革命を推進する力となった。

ソヴィエト

ソヴィエト

この事態に皇帝ニコライ2世は自らが退位し、弟ミハイルに譲位することで混乱を収拾しようとしたが、ミハイルがこれを拒否したため帝位につく者が誰もいなくなり、300年あまり続いたロマノフ王朝はついに滅亡。

これが3月革命である。

 

一方、帝政を打倒し成立した臨時政府だったが、社会革命党のケレンスキーが法相となった以外に社会主義者の入閣は認められず、内閣は自由主義者のみで編成されていた。

ブルジョワ階級や自由主義者たちは戦争特需を享受していたため、彼らが主導する臨時政府は戦争の継続を望み、徹底した改革と即時講和を掲げるソヴィエトとは真っ向から主張が対立した。

こうして臨時政府とソヴィエトという二重権力が共存するという異例の態勢が続く中、亡命先のスイスから帰国してきたのが、ボルシェヴィキの指導者レーニンである。

ウラジミール・レーニン

ウラジミール・レーニン

 

ついに史上初の社会主義国家を誕生させた11月革命とは?

レーニンは祖国での3月革命勃発の知らせを受け、ただちに帰国し革命を指導することを希望したが、それには大きな問題があった。

当時は第一次世界大戦の真っ只中。

スイスからロシアに戻るためにはドイツを通過する必要があったが、交戦中のロシア人がドイツ国内を通行するなど許されないことだった。

そこでレーニンは秘密裏にドイツ当局と交渉し、ドイツ領内通過中は列車から離れず、ドイツ市民と一切接触しないことを条件に許可を取り付けることに成功。

これがいわゆる「封印列車」である。

ドイツ側からしても、ロシアにおける革命が進んで戦争から撤退してくれれば、東方への憂いが無くなり西部戦線のみに集中できるので、レーニンを帰国させることが結果的には自国の利益になると判断し通過を認めたのだ。

こうしてドイツのキール港から海路でロシアに向かったレーニンは、1917年4月16日の夜にペトログラードに到着。

無事に帰国を果たした翌日、すぐさま「4月テーゼ」と呼ばれる指針を発表し、戦争の即時停止と、「権力を握る資格があるのはソヴィエトであり、いまこそ権力を奪取しよう」と呼びかけたレーニンは、臨時政府をブルジョアジーの権力、ソヴィエトをプロレタリアートの権力と見なし、前者から後者への全面的な権力の移行を主張した。

この時の有名なスローガンが「すべての権力をソヴィエトへ」である。

十月革命でペトログラードの群集を前に演説するレーニン

十一月革命でペトログラードの群集を前に演説するレーニン

人々が長引く戦争で苦しんでいた中、レーニンの主張は広く国民の心をとらえ、奮起した兵士や労働者が首都ペトログラードで約50万人規模の武装デモを強行。

しかし、これは臨時政府により鎮圧されてしまい、またデモを主導したボルシェヴィキは国家に対するクーデターを企てたとして激しく弾圧された。これを「7月事件」という。

さらにボルシェヴィキの指導者であるレーニンは、亡命先のスイスから帰国する際にドイツを通過したことから、敵国ドイツの協力を受けたスパイであるとの容疑をかけられ、難を逃れるためにフィンランドへ再び逃亡させられた。

こうして一連のデモを鎮圧した臨時政府は、労働者たちの支持を取り付けるべく社会革命党のケレンスキーを首相に据え、国民の不満の目をそらそうと目論むが、軍総司令官コルニーロフ将軍の反乱を受け、結果的にはこの事件がボルシェヴィキの勢力復活に大きな役割を果たすこととなる。

ラーヴル・コルニーロフ将軍

ラーヴル・コルニーロフ将軍

死につつあるロシアの大地を守る」ことを全ロシア国民に呼びかけ、首都に進軍したコルニーロフ将軍率いる反乱軍が迫りくる中、自力では対処できなかった臨時政府が助けを求めたのが、弾圧していたはずのボルシェヴィキだったのだ。

兵士からの支持の厚いボルシェヴィキによる説得を受けた反乱軍は、徐々に足並みがそろわなくなり、ついには一発の銃弾を打つこともなく解体させられ、コルニーロフによる反乱は失敗に終わった。

この事件をきっかけにボルシェヴィキは勢力を回復し、ソヴィエト内での軍事力・政治力を急速に拡大させていく一方、あくまでも戦争継続を主張するケレンスキー首相率いる臨時政府は完全に国民の支持を失い、ますます弱体化していった。

ここに臨時政府打倒の機をみたレーニンは、密かに亡命先のフィンランドより帰国し武装蜂起を決意。

 

ブルジョワ共和制国家の終焉と社会主義政権の誕生

「武装蜂起はもはや避けられず、その機は十分に熟した」

1917年10月23日に開かれた党中央委員会において、このレーニンの武装蜂起の主張が党の方針として採択された。

そして26日にはペトログラード・ソヴィエト内にレーニンの最も重要な同志であるトロツキーを議長とする軍事革命委員会が組織されるなど、武装蜂起に向けた準備が整った。

11月6日早朝、最後の抵抗を試みる臨時政府のケレンスキーは、蜂起を煽動したとの理由でボルシェヴィキの機関誌を発行する印刷所を襲撃させ、これを占拠。

この動きが引き金となって軍事革命委員会も武力行動を開始。

もはや求心力を失った臨時政府に味方するものは少なく、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けることもなく、この日のうちに駅・郵便局・電信局・国立銀行など首都の主要な拠点がほぼ流血無しのうちに占拠された。

この結果を受け、1917年11月7日、ペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会は「臨時政府が打倒され、同委員会が権力を掌握した」と宣言。

そして同日のうちに防護巡洋艦アヴローラの砲撃を合図に、臨時政府が拠点とする冬宮への攻撃が始まり、翌日にはケレンスキーを除く全閣僚が逮捕された。

一人冬宮を脱出したケレンスキーは最終的に国外へ逃亡し、以後ふたたび祖国の土を踏むことは叶わなかった。

防護巡洋艦アヴローラ(オーロラ)、1917年撮影

防護巡洋艦アヴローラ(オーロラ)、1917年撮影

 

武装蜂起により革命が進行していくのと並行して、当初から予定されていた第2回全ロシア・ソヴィエト大会が開催された。

この大会において全代議員650名のうちボルシェヴィキは390名を占めており、一部の社会革命党やメンシェヴィキの議員が武装蜂起を非難し退席していたため多数派となっていた彼らは、冬宮占領の報を受けて権力のソヴィエトへの移行を宣言。

さらに11月9日、同大会においてすべての交戦国に対して無併合・無賠償の講和を提案する「平和に関する布告」と、貴族・教会などの地主から土地を没収することを宣言する「土地に関する布告」などが採択された。

そして、レーニンを議長とする「人民委員会議」が臨時政府に代わる新しいロシア政府として設立され、ここに人類史上初の社会主義政権が樹立された。

これが11月革命であり、この動きはその後のソヴィエト連邦誕生にもつながっていくこととなる。

 

20世紀において最も巨大な意義をもった社会変革であるロシア革命は、革命によって成立した政権が社会主義の名のもとに新しい社会体制を作り出したことから、世界中の反資本主義・反帝国主義の革命運動に大きな力を与え、全世界に非常に大きな影響を及ぼした。

 

1918年1月、ボルシェヴィキは議会を解散して一党独裁を開始するとともに、同年3月には党名を「共産党」と改称し、共産党以外の政党を禁止した。

また、1919年にはヨーロッパ諸国に革命を波及させることを目指しコミンテルンを創設。

しかし、ヨーロッパでの試みは各国から警戒され、ことごとく失敗に終わる。

この結果を受けて、コミンテルンはターゲットを非ヨーロッパ圏に定め、帝国主義に抵抗する植民地の民族解放運動を積極的に支援するようになっていった。

そしてその影響を最も受けたのが、欧米列強の帝国主義の前に苦汁をなめ続けていた中国であり、コミンテルンの指導を受け、1921年に誕生したのが「中国共産党」である。

 

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