2016.04.06 毛沢東

「五四運動」を思想面から支えた「新文化運動」と「文学革命」とは?

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「中華思想」にもとづく中国ナショナリズムの高揚

「中華思想」という言葉をご存じだろうか?

これは中国人が古くから持ち続けてきた自民族中心の思想で、中国こそが世界の中心であり、その文化・思想が最も価値のあるものと自負する考え方である。

この中華思想にもとづき「世界は自分を中心に回っている」と考える中国人は、誇り高く面子が潰れることを何よりも恐れる。

彼らにとって「面子は命よりも大切」なものなのだ。

 

そんな中国人たちの自尊心が無残に打ち砕かれたパリ講和会議。

欧米列強の前に中国の主張はことごとく無視され、怒り心頭に発した学生たちが起こした抗議デモが全国的な反帝国主義的愛国運動へと拡大し、ついには政府を屈服させ、ベルサイユ条約を拒否させるという事態にまで発展した「五四運動(前ページ参照)」。

 

中国人のナショナリズムをこれほどまでに高揚させた要因として、全世界的に民族主義運動が高まっていたということ以外に、「新文化運動が進めた思想改革」「ロシア革命によるマルクス主義の伝播」の影響が挙げられる。

民主主義と科学を中心とした新文化運動の過程において、マルクス主義が中国に浸透し、1921年の中国共産党結党へとつながるのである。

 

旗印は「デモクラシー」と「サイエンス」!儒教からの解放「新文化運動」とは?

辛亥革命により成立した中華民国は、建前上は民主的な共和制国家だったが、その実情は軍閥が割拠し政治的混乱が続く中、帝国主義を掲げる欧米列強による植民地支配を受けるなど、建前と現実には大きな隔たりがあった。

このことは革命に希望を抱いていた人々を大きく失望させたが、そんな中でも新しい時代を切り開こうとする者たちがいた。

北京大学の教授や学生など若い知識人たちである。

彼らはまず思想面での改革の必要性を訴え、文学や学問を用いた啓蒙活動を行った。

これがいわゆる「新文化運動」であり、その中心人物が陳独秀である。

陳独秀-2

陳独秀

中国の新文化運動の指導者として活躍した陳独秀は、のちに中国共産党を創設し、その初代委員長となった人物である。

彼は1915年9月に上海で雑誌『新青年』を創刊、新文化運動の口火を切った。

 

折しもこの時期の中国では、袁世凱が自ら皇帝となるべく帝政運動が進められており、強力な立憲君主制を復活させるために儒教を利用としようとする動き(尊孔復古)が全国的に広がっていた。

儒教の教えでは、目下の者は目上の者を敬ってこれに従うことを要求されるため、君主専制時代においては支配者の命令に人民を盲目的に従わせるのに都合がよかったのだ。

このような風潮に対し、陳独秀は『新青年』創刊号に「青年に謹んで告ぐ」という論文を寄稿。

来るべき新しい中国の精神として「デモクラシー(民主主義)」と「サイエンス(科学)」を掲げ、2000年にわたる絶対君主制の専制独裁統治を支えてきた儒教からの解放を訴え、政治・経済・文化・社会の近代化を要求したのだ。

君主権力を倒し、政治の解放を求めること。

教会権力を否定し、宗教の解放を求めること。

財産を均等に分配し、産業を興し、経済の解放を求めること。

女性の参政運動を行ない、男性本位の権力の解放を行なうこと。

(「青年に謹んで告ぐ」より)

 

また、尊孔復古には真っ向から反対し、儒教こそ決別すべき思想であるとして厳しく批判した。

儒教の三綱(君臣・父子・夫婦間の道徳)の説は一切の道徳政治の根本である。

君主は臣下のかなめとする。

すなわち臣下は君主の付属物となり、独立した人格はない。

父は子のかなめとする。

すなわち子は父の付属物となり、独立した人格はない。

夫は妻のかなめとする。

すなわち妻は夫の付属物となり、独立した人格はない。

天下のすべての男女は臣下であり、子であり、妻であり、独立自主のひとは一人もいない。

三綱の説とはこのためのものである。

それゆえ、尊孔を主張すれば君主を立てるほかなく、君主を立てることを主張すれば復辟をするほかはない。

孔教と共和はやはり双方互いに絶対に相容れないものであり、一方の存在は必ずや他方を廃絶させる。

(陳独秀『復辟与尊孔』より)

 

この単純明快かつ過激な主張は、辛亥革命後の政治情勢に強い不満を抱いていた中国の学生らの心をつかみ、青年層を中心に圧倒的な支持を受けた。

 

古典との決別!中国近代文学の幕開け「文学革命」とは?

陳独秀らによる思想面からの改革が進められる一方、文章表現に関してもそれまでの常識を覆す劇的な改革が行われた。

いわゆる「文学革命」である。

中心となってこの革命を推し進めたのが胡適と魯迅である。

胡適

胡適

1917年、アメリカに留学中だった胡適は陳独秀の依頼を受け、『新青年』に「文学改良芻議(ぶんがくかいりょうすうぎ)」という論文を寄稿し、これまで使用されてきた難解な古典文語文をやめ、庶民の話し言葉である口語文を用いた「白話文学」を提唱。

特権階級に属する知識人のみが独占していた文学を広く一般大衆に開放することを目指したのだ。

彼の主張は文語文を守ろうとする旧体制派の激しい反発を受けたが、民衆の圧倒的支持を受けた白話文の勢いを止めることはできず、最終的には全国の新聞や雑誌も白話文を使用するようになっていった。

理論面で文学革命を後押ししたのが胡適であったのに対し、実務面での中心人物となったのが魯迅である。

魯迅

魯迅

彼の代表作である「狂人日記」「阿Q正伝」は、従来の儒教的道徳や封建制度を鋭く批判した内容となっており、現状を憂い、憤まんやるかたない思いを抱える人々に広く読まれるようになった。

まさに中国近代文学の幕開けである。

 

大衆向きで分かりやすい白話文を用いる言語改革は、陳独秀らの思想改革と互いに補完しあいながら「新文化運動」を発展させていき、やがて政治的な革命運動「五四運動」を成功させる素地を作り上げたのだ。

 

 

こうして中国において民主的かつ科学的な新しい文化の創造が急進的に推し進められていた頃、北方の隣国ロシアでは労働者や兵士が帝政を打倒し、社会主義政権を成立させる「ロシア革命」が勃発。

軍閥政権の横暴と欧米列強による侵略という苦しみの中にあった中国の人々から称賛を受けたマルクス主義とは・・・・

 

 

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