2016.03.25 毛沢東

毛沢東が直面した歴史の転換点「辛亥革命」とは?

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毛沢東と「辛亥革命」 青年時代は中国激動の時代だった!

広大な領土とおよそ15億人ともいわれる人口を抱える共産主義の超大国「中華人民共和国」。

中国国旗

その超大国を数十年にわたり独裁支配し、絶対的権力を保ち続けた毛沢東とは一体どのような人物だったのか?

青年時代の毛沢東が目にした歴史の大きな転換点「辛亥革命」と、のちの中国共産党の誕生に大きな影響を与えた「五四運動」とは?

 

意外と知られていない毛沢東の青年時代とは?

1893年12月26日、中国の中央部湖南省の韶山(シャオシャン)という農村で誕生した毛沢東は、5人兄弟の三男であったが、長男と次男がともに若くして死亡したため、事実上の長男として扱われた。

「沢」の字は毛家の一族の男児に共通して与えられ、「輝きを与える」という意味を持つ。

また、「東」は東方を意味することから、毛沢東の名前は「東方に輝きを与える」という意味になり、息子の栄達を望む両親の思いがそこには込められていた。

農民出身であっても学問を積み、科挙に合格して官吏として立身出世を果たしてほしいという強い願望と期待である。

毛沢東の生家

毛沢東の生家(韶山)

幼少期は母親の実家のある村に預けられていた毛沢東だが、8歳になると教育を受けるために故郷の韶山に戻される。

当時は教師の家に通う私塾という形がもっぱら教育の主流であり、並外れて記憶力の良かった毛沢東は優秀な生徒だったが、たびたび教師と衝突を繰り返すために放校になったり、退学を求められたことも一度や二度ではなかった。

1907年に4つ目の私塾を追い出されると、ついに父親からの学費の支援が打ち切られ、毛沢東は肉体労働に従事せざるを得ない状況に追い込まれた。

毛沢東(13歳)

毛沢東(13歳当時)

毛沢東は厳しい肉体労働を心底嫌っており、何とか野良仕事から逃れる方法がないかと考えあぐねていたところに父から出された条件、それが結婚だった。

父は結婚して家庭を持てば、毛沢東が少しは落ち着いて責任のある行動を取るようになるだろうと期待し、一日も早く息子を結婚させたがっていたのだ。

両者の思惑が合致し、毛沢東は父親の決めた相手と結婚することを条件に勉学を続けることが許され、1908年に4歳年上の羅一秀と最初の結婚をする。

毛沢東が14歳、花嫁が18歳の時である。

しかし、この結婚生活は結婚から1年余りで終わりを迎える。

その生涯で4人の妻を娶った毛沢東だが、最初の妻である羅一秀は赤痢のため、1910年にわずか20歳でこの世を去ったのだった。

短い結婚生活が終わると、毛沢東は故郷の韶山を離れ母方の文一族が住む湘郷県の東山にできた近代学校に入学。

私塾で教わるのが儒教の古典であったのに対し、近代学校では体育、音楽、英語などが授業科目に含まれ、教材にはナポレオン、ピョートル大帝、ルソー、リンカーンなどの伝記の要約版が使われるなど、毛沢東にとってはすべてが初めて目にするものばかりであった。

ここに数か月在学したのち、毛沢東は省都である長沙に赴き、湘郷出身者のために設立された学校に入学。

 

時は1911年の春。

この年、中国では一つの時代の終焉ともいうべき大変革が起きた。

孫文らによる「辛亥革命」である。

 

清朝打倒の「辛亥革命」は現代版の易姓革命か!?

「辛亥革命」とは、1911年に中国で発生した民主主義革命のことであり、この結果、アジアにおける史上初の共和制国家である中華民国が誕生した。

 

1911年10月10日の夜に湖北省の武昌駐在の部隊が起こした蜂起(武昌蜂起)をきっかけとして、反清朝の革命の波はたちまち全国を巻き込み、1か月以内にほとんどすべての省が武昌蜂起に呼応する形で清朝からの独立を宣言。

そして1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京で成立した。

孫文

孫文

翌2月12日、清朝第12代にして最後の皇帝である愛新覚羅溥儀が退位したことにより、260年余りにわたって中国を支配してきた満州族による王朝「清」が完全に滅亡。

秦の始皇帝から約2000年以上続いていた皇帝による専制政治体制がついに終わりを告げたのだった。

 

中華民国を樹立させ初代大総統となった孫文だったが、支持基盤が弱く諸外国からの支援もなかったため、就任から間もなく清朝皇帝の退位と引き換えにその地位を袁世凱に譲り渡すこととなる。

中華民国臨時大総統に就任した袁世凱

中華民国臨時大総統に就任した袁世凱

こうして中華民国の実権を掌握した袁世凱は、西洋式の新しい陸軍(新軍)を設立し、これを武力基盤として中央政府内での勢力を拡張。

この新軍は北洋軍と呼ばれ、中華民国初期の代表的な軍閥である「北洋軍閥」を形成した。

清朝の滅亡と中華民国の建国に多大な影響を与え、常に政府内の権力闘争の中心にいて隆盛を誇っていた最大勢力「北洋軍閥」だが、1916年に袁世凱が死亡すると根拠地とする地方と背景勢力の違いにより、直隷(ちょくれい)派、安徽(あんき)派に分裂。

それに北洋の傍系である奉天派を加えた三つの勢力が主軸となって大小諸派の対立が深まり、北京の政権をめぐって抗争を繰り返した結果、中央政府は弱体化。

中央の統制が利かなくなった地方では、実力者が実権を握りなかば独立した軍閥を形成するようになっていった。

 

中国はまさに激動の時代へと突入しようとしていたのだ。

 

このような混沌とした国内情勢の中、1913年春に湖南省の師範学校に入学した毛沢東は、ここで初めて「共産主義」という言葉に出会う。

師範学校在学中、儒教に代表される旧道徳・旧文化を打破し、人道的で進歩的な新文化を樹立しようということを提唱した「新文化運動」に影響を受けた毛沢東は、1918年4月に学友たちとともに「新民学会」を創立し、以後政治活動に加わっていくようになる。

1918年6月に師範学校を卒業した毛沢東は、北京へ上京し図書館で司書補として勤めるなどしたのち、1919年4月に長沙に帰郷。小学校で臨時雇いの歴史教師となる。

 

→(次ページ)中国共産党の誕生に大きな影響を与えた「五四運動」とは?

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