2016.01.20 南京問題

「南京大虐殺」とは?捏造とその裏側(1)~支那事変と上海事変~

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「南京大虐殺」があったとされる南京攻略戦に至る道のり

「推定30万人の中国人が6週間から2か月という短期間で虐殺された」

これはいわゆる「南京大虐殺」で日本軍により殺害されたと中国共産党が主張する犠牲者の数である。

中国共産党は「犠牲者数30万人」を公式見解として世界に発信する目的で、抗日戦争終結40周年の1985年8月15日に「南京大虐殺記念館」をオープン。

抗日記念館の代表格として愛国主義教育基地に指定されている。

南京大虐殺記念館(Author_WL)

「南京大虐殺記念館」各国語で”犠牲者300000″と表記されている

 

しかし、ここには大きな矛盾がある。

そもそも当時20万人しか人口のいなかった南京において、どうすれば30万人もの中国人を殺害することが可能なのか?

日中両国間で長年にわたり議論の対象となっている「南京大虐殺」

その嘘で塗り固められた歴史の真実を読み解くために、まずは「支那事変」と「上海事変」という二つの事変にフォーカスし、「南京大虐殺」があったとされる南京攻略戦に至るまでの日中関係を理解していきたい。

 

「南京大虐殺」があったとされる日中戦争(支那事変)とは?

いわゆる「南京大虐殺」が起きたとされているのは日中戦争(支那事変)初期の1937年。

中華民国の首都である南京を陥落させた日本軍が、6週間から2ヶ月に渡り、中国側の投降兵(捕虜)および一般市民を殺害したというのが中国の主張である。

 

1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋近くで演習していた日本軍に対して何者かが発砲したとして、翌朝から日本軍が北京周辺の中国軍への攻撃を開始。

この軍事衝突は「盧溝橋事件」と呼ばれ、この事件を発端として日本と蒋介石率いる中華民国は全面戦争に突入する。

これが「日中戦争(支那事変)」の始まりである。

なお、この軍事衝突では両国ともに宣戦布告を行わなかったため、「戦争」ではなく「事変」と称される。

蒋介石

中華民国総統の正装に身を固めた蔣介石(1944年)

 

実際には、日本は1931年9月の満州事変で中国への侵略を開始しており、事実上の日中戦争はこの時すでに始まっていたのだが、内憂を抱えていた蒋介石政権は満州事変とそれに続く満州国建国に対して積極的な抗戦を行うことができなかった。

つまり、国内における「軍閥との抗争」と「共産党勢力との内戦」で手一杯だったのだ。

このときの経験から、日本軍は中国の抵抗を過小評価し、日中戦争(支那事変)は短期間で終結できると考えていた。

しかし、その思惑は大きく外れることとなる。

 

水と油のように決して交わることはないと思われていた中国国民党と中国共産党が手を組んだのだ。

 

一体なぜそのようなことが実現できたのか?

ことの発端となったのが、1936年12月12日に起きた、いわゆる「西安事件」といわれる蒋介石監禁事件である。

国民党政権が共産党との内戦を優先させ、日本軍との戦いを極力避けていることに不満を持っていた東北軍を率いる張学良によって、蒋介石が西安において監禁されたのだ。

なお、この張学良は1928年6月4日に奉天で関東軍により爆殺された張作霖の息子である。

 

監禁された蒋介石は中国共産党との内戦停止を迫られるが、当初は断固拒否。

しかし、共産党代表の周恩来らの説得もあり最終的には同意するに至った。

結果的には、これが国民党と共産党が抗日民族統一戦線を結成する端緒となったのだが、西安事件への国民党の怒りは激しく、中国共産党の完全掃滅を決議するなど、もはや関係修復は不可能に思われた。

一気に態度を硬化させた国民党により壊滅寸前まで追い詰められた共産党だったが、起死回生となる日中戦争(支那事変)の勃発により状況が一変。

 

日本帝国主義への抵抗(抗日)という共通の目的ができたことで、犬猿の仲である国民党と共産党が提携して日本に徹底抗戦を行うという「第二次国共合作」が成立したのだ。

第二次国共合作

その結果、短期間で終結すると思われた日中戦争(支那事変)は、1945年8月15日の日本敗戦にまで続くこととなった。

 

頓挫する不拡大方針と上海事変により長期化する戦況

もともと日本政府は日中戦争(支那事変)を長期化させるつもりはなく、不拡大方針を取っていた。

つまり、戦火の拡大を極力避けたいと思っていたのだ。

 

その理由としては・・・

☑現地に駐屯している日本軍は兵員数では中国軍に対して劣勢である

☑戦闘拡大に伴う経費・戦備の負担を増やしたくない

☑戦闘が長引けば対ソ連戦の兵力を維持することが困難になる

☑欧米列強からの反発を危惧した

などが挙げられる。

しかし、「西安事件」をきっかけに中国全土の抗日気運が一気に高まり、もはや日中の対立は避けられないものとなっていく中、不拡大方針の日本政府の意に反し、戦火をさらに拡大させる出来事が起こる。

それが「第二次上海事変」である。

もともと上海は清朝時代から日本との貿易関係が強く、日本を含め欧米列強の租界もあったことから、この地で軍事衝突を引き起こすことで「日本が中国を蹂躙している」というイメージを作り出し、国際社会の同情を集めるためには最も効果的な場だったのだ。

そのため、満洲事変が起きた際にも、占領された満州ではなく、上海で抗議運動が起こり、鎮圧のために出動した日本海軍との間で戦闘に発展している。(第一次上海事変)

 

盧溝橋事件により戦火の火ぶたが切って落とされた日中戦争(支那事変)だが、短期決戦を望んでいた日本は、北平(北京)・天津地域を平定した時点ですぐに和平への動きを開始。

中国側からの信頼も厚い元外交官で実業家の船津振一郎を介し、中国政府に和平を働きかけたのだ。

いわゆる「船津和平工作」である。

その際、陸軍・海軍・外務省が合同で作りあげた和平案は、日本が大きく譲歩するものだった。

  • 塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定など、日本に有利な北支那に対する軍事協定をすべて解消する
  • 非武装地帯を作る
  • 冀東・冀東政権を解消し、南京政府の下に置く
  • 日本駐屯軍の兵隊は以前と同じ状況に戻す

 

この案は日本軍が占領した北平(北京)・天津地域を放棄、つまり満州事変によって日本が得た権益のほとんどを放棄しようという実に寛大な内容であり、日本からの要求は満州国の黙認と反日運動の取り締まりという、中国側にとっては好条件なものだったので、この条件さえ受け入れれば即日終戦も可能であった。

しかし、この和平交渉の第一回会談が行われた1937年8月9日、すべての努力が水泡に帰する事件が発生する。

日本海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉と運転手の斉藤要蔵一等水兵が車に乗って上海の虹橋飛行場に視察に向かったところ、中国の保安隊に包囲され機関銃で撃たれ殺害されたのだ。

大山事件

大山事件の現場

 

当初、中国側は大山中尉が中国兵を拳銃で射殺したので、これはその報復であったと弁明し、その証拠として死体を示した。

しかしこの偽装工作はすぐに馬脚をあらわすこととなる。

死体解剖の結果、中国兵から摘出されたのは中国軍の小銃弾だったことが判明。

一方、発見された大山中尉の変わり果てた姿は、見るに耐えないほど惨たらしいものだった。

遺体は全身に大小18ヶ所の銃創・刀創を受けており、頭部は二つに割れ、顔面半分はほぼ潰され、内臓を露出し、心臓部には拳大の穴をあけられるなど、まさに残虐の限りを尽くした暴行が加えられていたのだ。

さらに中尉の所持品は軍刀、靴、時計など一切が掠奪されるなど、死者の尊厳をまったく無視した許しがたい蛮行であった。

なお、この大山事件に関しては国民党内に潜んでいた中国共産党のスパイが、蒋介石を日本への攻撃に踏み切らせる目的で仕組んだものであることが後に明らかとなっており、まさにその狙いどおりに和平交渉は初日をもって頓挫した。

 

そしてこの事件から間もない1937年8月12日、国民党政府軍は日本総領事館と商社の電話線を切断し、翌13日には上海の租界から外に通じる道路をすべて遮断。

多くの日本人や中国人を含む一般市民が逃げられないように閉じ込めた上で、一方的な攻撃を開始したのだ。

第二次上海事変民間人被害

大世界近くのチベット通りとモンティニー大通りの交差点付近への中国軍機の爆撃による民間人被害者

 

これが「第二次上海事変」である。

当時の上海は、中国随一の大都会にして国際都市であり、租界には40ヵ国あまりの国の人々が住んでおり、日本人も4万人ほど在留していた。

そこに蒋介石は10個師団およそ5万人もの軍隊を配置。

一方、それらの日本人を守るべき上海駐留の日本軍は海軍陸戦隊のわずか約4,000名。

戦力差は明らかであり、この人数で多くの民間人を守ることは不可能だったため、日本政府は同日のうちに陸軍2個師団の派遣を決定した。

しかし、追加の援軍がようやく上海に到着したのは10日後の8月23日であり、その間日本軍は10倍以上もの敵兵相手に戦わざるを得なかった。

必死の善戦により何とか全滅は免れたものの、上海が欧米列強の共同租界であったこともあり、日本人や中国人、あるいは欧米人を含む約3,600名が死傷するという悲劇となった。

 

こうした中国による攻撃が相次いだことによって、日本政府は在留邦人の生命や財産などを守るため、中国に対する不拡大方針を放棄せざるを得なくなり、この後日本軍は戦線を中国全土に拡げ、果てしない戦いを続けることになるのである。

 

 

→南京攻略戦に続く(作成中)

(希望日本研究所 第4研究室)

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