2015.12.22 歴史に学ぶシリーズ

「ホロコースト」の真実とその背景(2)~ナチス躍進と反共主義~【歴史に学ぶシリーズ】

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ナチスの躍進と権力掌握まで

 

創設当初、わずか40人ほどの少数政党に過ぎなかったドイツ労働者党(ナチスの前身)

 

彼らを大躍進させるきっかけとなった第一次世界大戦末期の帝政ドイツ崩壊とヴェルサイユ体制という屈辱・・・

 

これらを受け入れざるをえない状況に加え、

ロシア革命のドイツへの波及と共産主義の台頭、反ユダヤ主義など様々な要因が背景にある中、ナチスはその勢力を一気に拡大させ、ついには一国を支配するまでに至ったのだ。

 

 

ナチスの台頭と躍進の背景にある第一次世界大戦敗戦の屈辱

 

第一次世界大戦の敗戦国となったドイツは、講和条約であるヴェルサイユ条約により莫大な賠償金を課されただけではなく、すべての植民地を放棄させられた上、領土は割譲され、軍備まで制限されるなどの屈辱を受け入れさせられた。

 

なお、ドイツでは条約と呼ばず「強制的に書き取らされたもの」という意味の「ディクタート」という言葉が使われている。

 

それほどドイツ国内の反発は激しく、ヴェルサイユ条約に対する恨みは深かった。

そして、その怨念が国民の中に継承され続け、後のナチス台頭の要因となるのだった。

 

1919年1月5日にミュンヘンでアントン・ドレクスラーによって設立されたドイツ労働者党(のちの国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス)にヒトラーが入党したのは1919年9月12日のことで、同党の55人目の党員であった。

 

ドイツ労働者党におけるアドルフ・ヒトラーの党員証

ドイツ労働者党におけるアドルフ・ヒトラーの党員証

 

天賦の才ともいうべき持ち前の雄弁技術により、一度に数千人規模の聴衆を集めることができたヒトラーは、たちまち党にとって不可欠な存在となり指導者としての立場を固めていった。

 

その後、ヒトラーはドレクスラーとともに党綱領の整備に取り組み、「大ドイツ国家の建設」「ヴェルサイユ条約の破棄」「領土(植民地)の要求」「ユダヤ人の排斥」「中央集権による独裁」など、後のヒトラーの政策を裏付けるような国粋主義的内容の25カ条綱領を作成。

主な項目は以下の通り。

 

  • われわれは、諸国民の民族自決権の原則にのっとり、大ドイツ国を樹立するため全ドイツ人が統合することを要求する。
  • われわれは、他国民に対するドイツ民族の平等権を要求し、ヴェルサイユ条約およびサン=ジェルマン平和条約の破棄を要求する。
  • われわれは、わが国民を養い、過剰人口を移住せしめるために、土地および領土(植民地)を要求する。
  • 民族同胞のみが国民たりうる。宗派にかかわらずドイツの血を引く者のみが民族同胞たりうる。ゆえにユダヤ人は民族同胞たりえない。
  • 非ドイツ人のこれ以上の流入は阻止されねばならない。われわれは、1914年8月2日以降ドイツ国に流入したすべての非ドイツ人を、即時強制的に国外へ退去せしめることを要求する。
  • われわれは、傭兵軍隊の廃止と、国民軍の建設を要求する。
  • 以上すべての要求を貫徹するため、われわれは、ドイツ国に強力な中央権力を創設することを要求する。

 

なお、綱領にはこれ以外にも不労所得の廃止や戦時利得の没収、トラストの国有化、養老制度の拡張、土地改革などの社会主義的な政策も含まれているが、これらはあくまでも国民の賛同を得て党勢を拡大するために掲げられたに過ぎず、ヒトラーが実権を掌握してからは有名無実化された。

 

 

ナチスの躍進と政権奪取に至る道のり

 

完成された25カ条綱領が発表されたのは、1920年2月24日にミュンヘンのビアホール「ホフブロイハウス」で開催された党大会。

 

発表はヒトラー自身が行い、一項目ごとに聴衆が理解するか問いかけ、演説の最後には「いつまでも続く嵐のような賛成の声」が起こったという。

のちにヒトラーはこの時の様子を「一条また一条と、高まる歓呼の声でもって承認され、全会一致に次ぐ全会一致で採択された」と記している。

 

同年2月末に党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(以下、ナチス)に変更し、6月にはナチスの象徴でもある鉤十字「ハーケンクロイツ」を党章として採用。

 

国家社会主義ドイツ労働者党の党章

国家社会主義ドイツ労働者党の党章

 

そして1921年7月、ヒトラーは党の独裁権を付与された指導者(党首)となった。

 

そんな中、1923年11月、ナチスの名前が一躍脚光を浴びる事件が起きる。

 

ミュンヘン一揆である。

 

フランスとベルギーによるルール占領によって経済が壊滅的な打撃を受け、マルクの価値が1兆分の1に下落するという天文学的なハイパーインフレを引き起こしたことで、国民の中に渦巻く政治不安が激化。

その機に乗じてナチスがワイマール共和国打倒のクーデターを企てたのだ。

 

このミュンヘン一揆は国防軍によって鎮圧され、ヒトラー自身も逮捕されて翌年の裁判で有罪となり9ヶ月間投獄されるなど失敗に終わったが、この事件をきっかけにヒトラーとナチスの存在はドイツ国内外に広く知れ渡ることとなった。

 

なお、この投獄期間中に口述筆記されたのが、かの有名なナチスのバイブル『わが闘争』である。

 

この失敗を教訓に、出獄後のヒトラーは戦術を転換し、武力ではなく選挙による合法的な政権獲得を目指すようになった。

 

 

しかし、このときはまだ一気に権力を掌握するまでには至らなかった。

 

当時のドイツは「黄金の20年代」と呼ばれる時代で、国民に重くのしかかっていた莫大な賠償金問題が、ドーズ案(アメリカ人財政家のドーズが提案した支払金額減額案)を受け入れたことにより解決の道筋がつき、政治・経済・社会ともに安定期に入っていたのだ。

さらに、ルール地方を占領していたフランス・ベルギー軍も撤退し、アメリカ資本の支援が行われたことでドイツの生産力が徐々に回復。

 

経済が復興の兆しを見せ始めたことで国民の危機感が薄れ、極右勢力への支持も減少した結果、1928年5月20日の国政選挙ではナチスはその勢力をほとんど伸ばせず、総投票数の2.6%、12議席しか獲得できなかった。

 

 

しかし、その後ドイツ経済を再び奈落の底に突き落とす「世界大恐慌」が起こり、このことがナチスにとっての追い風となる。

 

1929年に始まった世界大恐慌により、アメリカ資本に依存して回復しつつあったドイツ経済はたちまち崩壊の危機に瀕する。

企業の倒産が相次ぎ、工業生産は半減して失業者数が600万人を超えるなど、国民生活は困窮を極めた。

 

そして、恐慌の影響が深刻となり社会不安が進むにつれ、「大ドイツ国の樹立」「ヴェルサイユ体制の打破」「ユダヤ人の排斥」などを声高に叫ぶナチスの主張は、次第に人々の心をとらえていったのだ。

 

ナチスは巧みな宣伝によって、従来の政党に失望した中産階級の支持を得ることに成功。

 

さらに労働者の支持を受けて着実に議席を増やし続ける共産党が、これ以上勢力を拡大することを恐れた資本家とユンカー(大地主)もナチスを支持するようになり、積極的に財政援助を行った。

 

このようにして潤沢な選挙資金を得たナチスは、1930年9月の選挙では総投票数の18.3%を獲得し、議席数を12から一気に107議席まで伸ばし、第2党へと躍進した。

 

さらに、1932年7月の選挙では総投票数の37.4%、230議席を獲得。

これにより議会第1党党首となったヒトラーは、ヒンデンブルグ大統領により首相に任命され、1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が成立。

 

ナチスはこの政権掌握を「国家社会主義革命」と定義した。

ヒトラー内閣(Attribution_Bundesarchiv, Bild 183-H28422)

成立日のヒトラー内閣

 

ただし、ナチスの議席数は過半数に満たなかったため、他の右派政党との連立政権だった。

 

当初、ヒトラーは憲法遵守と議会の尊重を演説で約束し、組閣の面でも首相であるヒトラー以外のナチス出身者の入閣を2名に抑えたこともあって、他の連立政党やヒンデンブルグ大統領らはヒトラーをこのまま抑制できると考えていた。

 

しかし、すぐに彼らはその考えが甘かったことを思い知らされる。

 

ヒトラーは就任後数日もしないうちに野党との交渉決裂を理由に、国民に信を問うという形で大統領令として議会を解散。

3月5日に総選挙を行うことを決めたのだ。

 

 

ナチスの台頭と躍進の背景にある反共主義

 

総選挙期間中の2月27日の夜、ナチスの一党独裁を決定づける事件が起こる。

 

ベルリンにある国会議事堂が何者かによって放火され、焼失したのだ。

いわゆる「ドイツ国会議事堂放火事件」である。

炎上する国会議事堂

炎上する国会議事堂

 

事件の一報を受け、真っ先に現場に到着した国会議長兼プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングが現場で議事堂財産の避難と捜査に当たっていたところ、焼け残った建物の陰に隠れていた半裸の人物マリヌス・ファン・デア・ルッベを発見。

 

ルッベはオランダ人でオランダ共産党員であった

 

ヒトラーとゲーリングはこれを「共産主義者による反乱の始まり」であるとし、単独犯ではなく組織的陰謀であると断定。

 

事件の翌日、ヒンデンブルク大統領名の「国民と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」という二つの緊急大統領令を即日発効した。

 

これによって個人の自由、言論・出版の自由、結社・集会の自由は制限され、通信の秘密の侵害、家宅捜索や押収、個人財産の制限、令状によらない逮捕が可能となるなど、ワイマール憲法の最も優れた点であった基本的人権と市民的自由権は完全に葬り去られたのだった。

 

また、事件の責任を負わされた共産主義者は次々と警察によって予防拘禁され、その対象は無政府主義者、社会民主主義者も広がっていき、結果として3000人以上の共産党員、ドイツ社会民主党員が逮捕・拘束された。

 

こうして迎えた1933年3月の選挙の結果、ナチスは総投票数の43.9%、288議席という圧倒的多数を獲得。

過半数には届かなかったが、連立を組む国家人民党が52議席を獲得したことで過半数を確保した。

 

選挙後、共産党が非合法化され、共産党議員の議席は議席ごと抹消されたため、ナチスの議席数は単独でも過半数に達した。

 

1933年3月21日に行われた新国会の開会式は、国会議事堂が放火事件により全焼していたためポツダムのフリードリヒ大王の墓所のある教会で壮麗な雰囲気の中とり行われた。

ヒンデンブルクとヒトラー(Attribution_Bundesarchiv, Bild 183-S38324)

ポツダムの日、ヒンデンブルクと握手するヒトラー

 

この日は「ポツダムの日」と呼ばれ、ドイツの歴史上、大きな転換点の一つとされている。

 

 

ナチスによる国会無効化とヒトラー独裁体制の確立まで

 

すでにこの段階でナチスはほとんど絶対的な権力を手にしていた。

 

しかし、ヒトラーはいわゆる「全権委任法」(正式名称:民族および国家の危難を除去するための法律案)を成立させることでさらなる独裁体制を固めることを目指すのだった。

全権委任法

全権委任法の制定を求めるヒトラー、1933年3月23日

 

この法律は、内閣に対し無制限の立法権を与えるものであり、法律が成立すれば首相であるヒトラーは議会に諮ることなく法律を作ることができるようになり、そのことは議会政治自体が否定されたことを意味し、事実上、ワイマール憲法は終焉を迎えるのだった。

 

ところが、法律を成立させるためには大きな問題があった。

 

憲法改正には国会において議員定数3分の2の以上の出席、そしてその3分の2の賛成を必要としたが、この時点でナチスは過半数の議席は握っていても、その数は3分の2には至っていなかったのだ。

 

そこでナチスはさらなる一手に打って出る。

 

「全権委任法」に先立ち、国家人民党などの協力を得て、議院運営規則の修正案を可決。

 

(議院運営規則の修正案)

・議長は許可を得ず欠席した議員を排除できる

・自己の責任によらず欠席した議員は、出席したものとみなされる

・排除された議員も出席したもの(棄権扱い)とみなされる

 

この修正案を都合よく解釈し、逮捕されて出席できない共産党の議員たちを「棄権扱い」とすることで「全権委任法」を可決させたのだ。

 

こうして国会から立法権が奪われ、議会政治は終わりを迎えた。

 

 

また、ナチスは政権を取るとすぐにバイエルン州などの地方政府の掌握を開始し、地方政府は次々にナチスの手に落ちていった。

 

さらに1933年7月には政党禁止令の発布によりナチス以外の全政党が解散に追い込まれ、新規政党の設立も禁止された。

これにより同年11月に行われた選挙はナチスのみの選挙となった。

 

ヒトラーが最高権力者に昇りつめるまであと一歩のところまで来ていた頃、すでに高齢であり衰弱していたヒンデンブルク大統領は死を迎えつつあった。

 

そこでヒトラーは1934年8月1日、緊急閣議を招集し「国家元首に関する法律」を制定。

 

これはヒンデンブルクが死んだ後は、大統領の職を首相と統合し、権限を「指導者兼首相であるアドルフ・ヒトラー」個人に委譲するというものであった。

 

翌8月2日にヒンデンブルクが死去すると、即日、ヒトラーは大統領と首相の権限をあわせた総統(フューラー)となり、国家元首の地位に就く。

NA007506

1934年8月2日、安置されるヒンデンブルクの遺体

 

これによってヒトラーは名実ともにドイツの独裁者となったのだ。

 

 

8月19日に行われたこの措置の正統性を問う国民投票において、90%近くの賛成票を得たヒトラーは、肩書き無しの「アドルフ・ヒトラー」として次のような布告を行った。

 

「国家社会主義革命は、権力事態としては終了した。これから1000年間、ドイツにおいてはいかなる革命も起こらないであろう」

 

こうしてナチスによる権力掌握は完了。

 

 

そして、本来は時限立法であった「全権委任法」が永続化されてナチス政権崩壊まで存続した結果、「ホロコースト」を含むナチスの非人道的行為はすべて「合法的」に遂行されることとなったのだ・・・

 

 

→第二次世界大戦とホロコーストについては次ページに続く(作成中)

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