2015.11.27 領土問題

北方領土を取り戻すために─千島列島の歴史を知る─

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8月15日は終戦ではなく不法占拠の始まり

2015年(平成27年)は、戦後70年の節目の年にあたる。

安倍晋三首相が、終戦記念日の8月15日を迎えて戦後70年談話を出したが、実は8月15日は終戦ではなく不法占拠の始まりだったことをご存知だろうか?

 

日ソ中立条約で不可侵・中立を約束

当時、日本とソビエト連邦(ソ連)の間には、「日ソ中立条約」が締結されていた。

「日ソ中立条約」とは、日本とソ連が1941年4月13日、松岡洋右外相とスターリン首相との間で調印、締結した条約だ。

この条約は4ヵ条からなり、

 

両国間で平和友好関係を維持し、相互の領土保全、不可侵を尊重すること (1条)

締約国の一方が第三国によって軍事行動の対象とされた場合には、他方はその紛争の全期間、中立を守ること (2条)

有効期間は5年、期間満了の1年前に予告をもって廃棄通告しうること (3条)

 

などを規定していた。

つまり終戦直前、日ソ両国は互いに不可侵・中立を約束していたのである。

 

一方的な条約破棄と不法占拠

しかもソ連は、「日ソ中立条約」を破棄通告していたが、期間満了は1946年4月12日だから、まだこの条約が発効しているうちに一方的に破棄し、8月9日に日本に対して宣戦布告し、満州、樺太、千島列島に侵攻してきたのだ。

それは8月15日の終戦以降も続いたのである。

後に詳述するが、我が国固有の領土である北方領土、国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼまいしょとう)は、現在に至ってもなお、ソ連崩壊を受けてその主権の大部分が引き継がれたロシアによって、不法占拠され続けている。

私たち日本国民はこの不法占拠の事実を正確に知り、ロシアから北方領土を取り戻すために等しく声を上げていかなければならない。

そこで、ここでは「北方領土問題を徹底的に知る」、そのために「北方領土・千島列島の歴史を知る」ことから始めよう。

 

北方領土・千島列島の歴史

北海道の古事記─「新羅之記録」

我が国の北方四島だけでなく、北端の占守島(しゅむしゅとう)に至る千島列島

そこにはもともと、アイヌと呼ばれる人々が住んでいた。

このアイヌの人々と交流したのが江戸時代の松前藩である。

松前藩が「新羅之記録(しんらのきろく)という記録を残している。

これは、松前家の歴史を記した上下二巻の巻物からなる書物で、「松前国記録」「新羅記」とも言われる。

松前家は新羅三郎義光の流れをくむところから、この記録に新羅の名がつけられた。

森羅之記録

森羅之記録

 

「新羅之記録」は1643年(寛永20年)、幕命によって編纂された松前家系図を、第6代藩公の弟、景廣(かげひろ)が多くの記述を補って作成したもので、今日残されている北海道(当時は蝦夷地えぞち)最古の歴史文献である。

和人による北海道支配の成立過程をこれほど詳細に記録したものはなく、「北海道の古事記」とも言われている。

この「新羅之記録」によれば、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(北海道根室地方)のアイヌの人々が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み込み、松前へ来て交易を営んでおり、ラッコの皮を松前藩主に貢物として送り、松前藩はこれを徳川幕府に献上したと記録されている。

北海道本島には生息しないラッコを貢物としたことは、千島列島と北海道との間の密接な交通、交易をうかがわせる記述だ。

 

江戸時代の地図─正保御国絵図(しょうほおくにえず)

1644年(正保元年)に、徳川幕府は諸藩地図の作成を命じたが、松前藩が提出した地図、正保御国絵図には、知床半島と納沙布岬の沖に大小39の島々が描かれ、その中には「くなしり」(国後)、「えとほろ」(択捉)、「うるふ」(得撫)などの名前が付されている。

正保御国絵図

正保御国絵図

 

また1715年(正徳5年)、松前藩主は幕府への上申書の中で「北海道本島、千島列島、カムチャツカ、樺太は松前藩領で自分が統治している。これらの地域には、アイヌ人がそれぞれ住み酋長がいるが、総支配は松前藩が行っている。」と報告している。

1754年(宝暦4年)には、松前藩は国後島に「場所(交易・漁業拠点)」を開き、商船を送り込み、厚岸、国後島を根拠とするアイヌの人たちとの交易が活発となる。

その範囲は択捉島、得撫島(うるっぷとう)にまで及んで、交易を行っていたことが記録されている。

 

一方、18世紀に入ると、ロシアは千島列島に進出を開始し、しばしば探検隊を送って調査し、ラッコの捕獲などを行ったこともあった。

江戸幕府が択捉島以南の島々に番所を置き、外国人の侵入を防ぎ、これらの島々を治めていたのである。

1786年(天明6年)には、最上徳内(もがみとくない)が択捉島に渡り、ロシアの南下の様子を調査している。

最上は農民の出身で、幼時から数理計測を好み、調査の後、松前藩主に防備の献策を行い、帰府して本多利明の塾で測量学、地理学などを学んだ人である。

1798年(寛政10年)には、幕府が択捉島に近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)らを派遣。

近藤らは同島丹根萌(たんねもえ)に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建立した。

その後、近藤は書物奉行となり、「外蕃通書」「辺要分界図考」などを編んでいる。

 

函館の大商人─高田屋嘉兵衛

1799年(寛政11年)、幕府は北方領土を含む東蝦夷地を直轄とし、高田屋嘉兵衛が択捉航路を開いた。翌1800年(寛政12年)、嘉兵衛は択捉島に17ヶ所の漁場を開いている。

高田は兵庫に出て廻船業を営み、この航路・漁場開拓の後、1806年(文化3年)に蝦夷地産物売捌(うりさばき)方を命じられ、箱館を拠点として蝦夷地の商権を独占し、巨利を得た。

高田屋嘉兵衛

高田屋嘉兵衛

日魯通好条約で国境が決まる

しかし19世紀前半になると、日本とロシアの衝突が緊張の度合いを増す。

1811年(文化8年)、千島列島近海の測量の途中、国後島に立ち寄ったロシアのゴローニン船長らが南部藩に捕らえられ、松前に護送された。

一方、翌1812年(文化9年)、高田屋嘉兵衛も国後島付近でロシア船に捕らえられ、これを契機に、1813年(文化10年)、日ロ両国の間で国境を決める交渉が始まることになる。

交渉は難航したものの、1855年(安政元年)に「日魯通好条約」が結ばれ、日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決定した。

これにより、択捉島から南は日本の領土とし、得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認された。

また、樺太は今までどおり国境を決めず、両国の混住の地と定められた。

この「日魯通好条約」が結ばれた日が2月7日であることから、我が国は2月7日を「北方領土の日」と定めている。

参考URL 独立行政法人 北方領土問題対策協会HP

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